11/10/28 21:55:39.28 vTeonANG
>>925
(つづき)
片山さんも、経紹介文の中で、
『この四念処(四念住)は観(ヴィパッサナー)随観(アヌパッサナー)の行法として知られるものであり、
仏教固有の、また仏教の最も重要な実践の一つであると言ってよい。』
としているから、四念処の先が観であるという認識ではあろうと思う。
が、大法輪での初回では、こう記している。
(連載本文中には、道元始め天台の止観にも触れつつだから、踏まえた上でのことと思うが)
『止観とは、すなわ止の修習と観の修習です。「止」(samathaサマタ)は、諸煩悩を寂止させる心の修習、
またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性を本質とします。
それに対して、「観」』(vipassanAヴィパッサナー)は、三界における身心の相(無常・苦・無我)を観察し、
道・果・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、
知る慧を本質とします。たとえば釈尊は・・・・略(Dhp277-279偈)・・・・と。これは「観」という「清浄にいたる道」
を示されたものです。智慧によって諸行の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。
苦は苦でなくなる。生死という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。
苦は苦であり、苦ではない、というのです。この観は「大念処経」に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。』
とあるから、観の前提、前段階という位置付けではあっても厳密な区別はしていないようだ。
その後も
『すでに触れたとおり、心の静まりを保つ「止」という実践に対して、「観」は洞察の智慧であり、智慧の実践です。』
『本経は、その止観の「観」を主に説き、「念」「念処」を所縁、対象として観る念処観を明らかにしたものです。』
『仏の教えを根本から学ぶ者、ヴィパッサナー(観)の瞑想をする者、・・・・この経の理解は不可欠であります。』
とある。道元さんも多く引用されてるが、総じて、寛容な使い方といえる。
また、「止」が前提であることは、“禅定を修する上でのありふれた前提”という感じだ。(いや、実際そうであろうし。)
こういう点は、やっぱり『パーリは見解が低い』発言のネタになっちゃうかね・・?www