11/08/29 20:30:28.98 EkqfNLgL
このように説かれている通り、四諦八正道などは人が実践すべき法であり、観察の為の方法なのじゃ。
苦に悩む人々はそれを自ら実践する事で、苦を滅する事が出来る。
そのように心を観察し、究明する事が観察力を養い、心の働きに気づく力となるのじゃ。
苦が原因から生じ、原因が無ければ消えると観察する筋道が、自我をも観察する手立てとなる。
自我もまた縁によって起こるものでしかない故にのう。
それが如来によって説かれたのは、人々の苦を抜くためであるのじゃ。
苦を滅するための四諦八正道によって、人を悩ます苦が滅し、観察力を養い、観察の為の筋道がわかるのじゃ。
そのように優れた方法も人が自ら実践しなければならないものじゃ。
実践しなければお釈迦様と言えども、他人の苦を滅する事など出来ないのじゃ。
例えば誰かを連れてきて無理やり座らせたとしても、その間中瞑想をせずに金勘定をしている事も出来るじゃろう。
このように誰も他人に苦を滅する事を強制は出来ず、自らの意志によって行うべきものなのじゃ。
選択は常に法を知る者に任されているのじゃ。
賢い者は苦を滅する事が出来ると知った法を、無駄にする事無く修行に励むのじゃ。