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このように、洗いきよめが記念として残りましたが、それもかたどおりであり、
シンボルです。つまり、悪と偽りからの清めである霊的きよめを表します。
それはイザヤ書の次の個所からも明らかです。
「主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちのけがれを洗い、
エルサレムの血をそのなかからすすぎ清めてくださる。」
「シオンの娘」とは「教会」のことです。
その他、イザヤ1.16 エレミヤ2.22、ヨブ9.30、31 詩編51.14
人の体を洗うということは、人の霊の洗いを意味します。
また、イスラエルの教会であった外部の教会は、内部の教会を表象します。
それは主の(みことば)からも、実にはっきりします。
「パリサイ人や律法学者たちは、主の弟子たちが手を洗わないでパンを
食べているのを見て、咎めたてした。というのはパリサイ人やユダヤ人で
手をよく洗わないで食べる者はいなかった。・・・その他にも、杯や、
ツボ、銅器、ベッドなどを洗うという習慣をいろいろ守っていた。
主はかれらと群衆に向かって、『みんさん、わたしの言うことを聞いて、
悟りなさい。人を汚すのは、外から中に入ってくるものではなく、
人の中からでてくるものである』と」(マルコ7 マタイ15)
その他にも、「律法学者、パリサイ人、あなたがたはわざわいだ。・・・
杯や皿の外側を清くするが、内側は強欲と放銃でいっぱいである。盲目な
パリサイ人、杯と皿の中をまず清めなさい。すると外側もきれいになる。」
(マタイ23.25,26)
以上からはっきりすることですが、いわるる「洗礼」とは、霊的洗いの
こと、悪と偽りからの清めです。