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(続き)
誠成公倫会の場合は、正に、後者の方法をとっているわけだが、そのつもりで見ると、周りを
取り巻く男たちの姿は、催眠商法か、バーゲン会場に集まる主婦たちを操るやり手セールスマン
としか思えないのである。
そして、信者たちは、たまに姿を現す教祖を追って、神奈川、浦和、岡山など全国の集会場や
出張所、座談会場などに押し掛けるのである。
教祖・八島義郎は大正三年八月、父親が朝鮮総督府の仕事で渡韓中、韓国で生まれた。
先祖は浜松の旗本で、父親は一時、鹿島建設の幹部であり、親戚縁者に錚々たる顔触れが多い
ことが、自慢の一つだった。
だが、長男でありながら、少年時代から父親に疎んじられ、八島家を継ぐことができなかったという。
中学時代、彫刻の道を志した彼は、その後上京。彫刻家・関野聖雲の内弟子となって、修行。
やがて、西宮に移った彼は、彫刻家として名を上げるが、昭和十八年、三年間の結婚生活の破綻の後、
芸術家の道を捨て、軍需会社に勤めに出た。
その経験をもとに、自分で事業を興すが、戦後は、貧しい暮らしが続いたという。
そんな彼が、宗教への道を歩み出すのは、昭和二十九年に、行者の夢を見たことから、日蓮宗の
妙見堂がある大阪府豊能郡能勢を訪れ、仏像を彫りながら、修行を重ねた結果であった。
予知能力を身につけた彼は、やがて病気治しや、人助けを始め、三十二年に「新和会」を設立。
それ以来、各地を転々としたのち、関西に拠点を定め、今日に至るのである。