11/01/12 21:30:21 G5FkzzUb
イエスは、あがないのみ業をとおして、母からくる人間性は、すでに脱ぎすてられ、
おん父からの神的人間性を身につけられたからです。母からの人間性を脱し、父からの神的
人間性を身に帯び、こうして神人になられたことは、イエスがマリアをご自分の母と呼ば
なかったことから分かります。
「イエスの母はかれに言った、『ぶどう酒がなくなってしまいました』。イエスは母に言われた。
『婦人よ、あなたは、わたしと、なんのかかわりあいがありますか。わたしの時は、まだきて
いません。』と」(ヨハネ2)
「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に言われた。
『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの母です』と」(ヨハネ19)
「イエスに『あなたの母と兄弟たちが外に立って、あなたに会いたがっています』と告げる者が
いたが、イエスは、『神のことばを聞いて、それを行う者こそ、わたしの母であり、兄弟である』
と答えた」(ルカ8)
イエスはかの女を「母」と呼ばないで、「婦人」と呼んでおり、またかの女をヨハネの母にされ
ました。
このことはまた、ご自分をダビデの子と認められなかったことでも確かめられます。
(マタイ22.41-46)
聖書のどこに、カトリックの言うような神の母なるものがあるのでしょうか?