11/01/13 23:29:50 nvGXzoma
>>373
十牛図● その2 見 跡
水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。
芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)た麼(いな)や。
縦(も)し是れ深山の更に深処なるも、
遼天の鼻孔(びくう)怎(な)んぞ他を蔵(かく)さん。
● 水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。
水辺にも林の下にも、至る所に牛の跡が見える。
理論的には「色即是空、空即是色」であり、「天地と我と同根、万物と我と一体」であるが、実践面では無字の拈提に当たって、一單提一單提が全部牛の足跡である。
● 芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)た麼(いな)や。
香りの良い草が、そこら中に拡がり繁って風に吹かれているが、それが見えるかどうかと我々にせまっている。天地万物の一つ一つが、そっくりそのまま眞の事実の丸出しであるが、それがわかるかどうか。
頭では一応わかるが、本当のことはわからんだろうなと云っている趣がある。
● 縦(も)し是れ深山の更に深処なるも、
ムームーと本来の牛を追いかけていくと、その牛は追えば追う程、山又山と奥に入っていってしまう。
無字はそれを外に眺めて追いかけようとすると、どこ迄も遠くに行ってしまう。
ここが非常に大切なところであって、無字を外に眺めて追い求める拈提ではいけない。
只々無字に成り切っていく拈提でなければいけない。
● 遼天の鼻孔(びくう)怎(な)んぞ他を蔵(かく)さん。
だが一寸待って貰いたい。ムームーと一つ一つの牛の鼻面をつかむ拈提の一つ一つが、そのまま牛(眞の自己)そのものではないか。
それはどこにも蔵(かく)しようがない事実ではないか、と我々に警告している。
実地に着実に修行していくと、初めは何が何だかわからなかったものが、次第に坐禅の足の組み方手の置き処、姿勢の保ち方から始まって、呼吸の整え方、無字の拈提の仕方がわかってくる。
二月三月(ふたつきみつき)乃至半年一年と続けていくと次第に心も落ち着いて、坐禅工夫の仕方自体が深まりを増してくる。そしてこの工夫を続けていけば、自分も見性ができるに違いないという確信が湧いてきて、ますます熱心に坐禅に励むようになる。
思想的にも明確となって少々のことでは坐禅に対する信念はゆるがなくなってくる。