11/01/09 20:09:58 VwQX9kMv
無数無量の量子のたゆたう海のような空間に観察される、その量子の描く波紋の現われのような宇宙の姿は、
波紋の現れが無限であるように無限にあり得る。
それは常に誰かに観察されるまで無限の可能性として展開しているが、
一度何者かが観察すれば、その者の認識上においてはたった一つの宇宙の姿に収束し、
無限の可能性は全てそこに折りたたまれてある。
その観察者もまた然りであるとするならば、観察者とその観察者にとっての宇宙とは、
互いに鏡像関係にあるだけなのかもしれない。
分かりにくいだろうからこう考えてみるといい。
ある宇宙における全量子の状態を再構成して、全部自分の情報コピーとして作り替え、並べ替えするのである。
この宇宙そのものをまるごと自分のコピーとして再構成する。
これは宇宙がしょせんは無記名の量子の集まり、互いに名もなき区別なき量子のたゆたう海であり、
そこにどういう理由かは知らないがともかく秩序だてられた一個の情報の塊である私が発生し存在する以上
(もっともその存在は誰にも確約されておらず担保もされていない)、私の組成情報によって全宇宙がコピー化
再秩序化されるというのは、もともと(私の組成情報より階位の低い)ランダムな秩序しか持たない全宇宙の
運命として決まっていることだからなのである。
であるなら、宇宙の創造者=神とは、畢竟自己存在の唯一性と単一性という虚構を信じ疑わない意識、
錯覚に過ぎない自我意識、その永遠の連なりそのものを呼ぶ名に過ぎない。しかしその錯覚によってこそ、
いずれこの宇宙そのものは私という自我意識の器、巨大なる私のコピーとして再構成、再創造される運命にある。
(しかして同時に、そこには私のコピーではない可能性もまた斉しく折りたたまれて置かれている。
だからいつでもそれはとって代わることができる。
だから観察される宇宙の形やその変遷は、まるで儚い夢や児戯のようでさえある。
もっといえばそれは可能性としてのみ言及しうるものであるに過ぎない。)