11/07/30 23:23:51.55 jSBojarI
>>148
その区別は無意味だと思う。
ヨハネ福音書20章
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、
あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
151:神も仏も名無しさん
11/07/30 23:35:57.11 sorPf8QX
>>149
ファチマの出来事を事実だと信じるのは自由だろうと思う。
ただ、わたしにとってはUFOと同じくらいに遠い話であり、
それが事実だったとしても、わたしの生活は何も変わらないだろう。
目の前でロザリオの元后を見たり、UFOを見たりすれば驚くかもしれない。
しかし、驚いただけで終わりかもしれない。
ところでファチマ第三の預言は公開されたのだろうか。
152:神も仏も名無しさん
11/07/30 23:39:20.80 sorPf8QX
>>150
わたしの考えはアリウス派だろうと思う。
イエスを神だとは思っていない。
153:Johannes
11/07/30 23:53:22.16 jSBojarI
>>151
俺は「信じる」と云う言葉が好きではないし「信仰」と云う言葉は嫌いだ。
俺にとっては、認められるか認められないかが問題なのだ。
>>ファチマ第三の預言
既に公開されている。しかしバチカンは内容の一部を改竄したと言われている。
ヨハネス23世及びパウルス6世教皇のこの預言に対する姿勢から類推して改竄された可能性は高いだろう。
で、君が俺の書き込みに付いて来る目的は何かね。何を求めているのか。ただの暇つぶしか。
そもそも俺は ID:G/6nOBE6君の要請に答えた形でこちらのスレへ来ているのだか。
154:神も仏も名無しさん
11/07/30 23:58:13.14 uMjpUBsd
キリスト教は、対立のイメージがある。今でも、イスラム教と対立している感じだし
十字軍や、魔女狩りや宗教裁判といった排他的で攻撃的な感じがある。
その一方で、汝を愛せよ?汝の敵を愛せよか知らないけど、愛の大切さを説いている。
これは明らかに矛盾しているし、キリスト教が世界で信じている人は多いのにも関わらず
この世界から暴力や戦争は無くなっていない。これが何を意味するか?
宗教は実際に信じて、良くなったか悪くなったかで判断するべき。
教えが立派そうでも、現実によい結果にならなければ信じるべきではないでしょう。
155:神も仏も名無しさん
11/07/30 23:58:24.23 sorPf8QX
ヨハネ福音書の作家は聖霊と霊魂を同一視していない?
創世記にある話は、聖霊を受けたということなのだろうか。
それでは、すでに聖霊を受けている人間に、再度聖霊を与えることに
なってしまわない? 20章のイエスの行為は無意味かと思う。
156:神も仏も名無しさん
11/07/31 00:02:29.75 iw+nV7Ki
キリスト教が正しく、力が有るならば、もっと愛のある世界になっていないとおかしい。
正しい宗教ならば、それ位の力が出るはず。キリスト教は神様頼みで、空想を説いているに過ぎず現実味がない。
人種間での断絶もあるし、今も同性愛をタブー視するなど時代錯誤な面がある。
戒律も多い。人間は欲があるのが自然なのにそれを否定している所がある。これはおかしいと思う。
157:Johannes
11/07/31 00:09:49.29 CJUTGjBp
>>155
実にいい処にに気が付いたようだね。それは扉を開く鍵だ。
しかし、君は俺は質問をスルーしたから俺もスルーさせてもらう。
158:神も仏も名無しさん
11/07/31 00:15:39.06 u8BQwjIr
>>154 >>156
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も排他的な宗教です。
ユダヤ教には選民意識があり、他民族をブタのように思っています。
キリスト教は天国を独占し、キリスト教徒以外は地獄行きです。
イスラム教も同じ。天国はイスラム教徒のものです。
この三つの宗教が争うのは、経典や教義からの必然的な結果です。
アジア人やアフリカ人はサル扱いです。
159:神も仏も名無しさん
11/07/31 00:26:30.49 u8BQwjIr
>>157
スルーしたのではなく、どう答えたらいいかを考えていた。
人間とは何か、神とは何かを考えたい、ということではないだろうか。
そういう流れでヨハネスさんの話を聞きたい。
議論スレはスエデンボルグばかりで、そういった展開になりそうにない。
160:Johannes
11/07/31 00:49:24.08 CJUTGjBp
>>159
なるほど。
それは誠実な姿勢だと思う。君が良い人間性を持っている証だと思う。
多くの人達は、その大切な問いを忘れてしまい目先の優越感ばかりを求め、いつの間にか優越感の奴隷になっている。
俺は君と変わらない。俺は何もかも解明したとは思っていないし何かを悟ったとも思ってはいない。
ただ自分を誤魔化さずに君と同じことを考え続け真相を追い続けているだけの男だ。
神道・佛教・キリスト教・ヒンズー教・深層心理学など。
ここはキリスト教スレだからキリスト教を軸に書き込みをしている。
161:Johannes
11/07/31 01:39:51.60 CJUTGjBp
キリスト教会はカトリックにせよプロテスタント諸派にせよキリストの本当の教えを分っているとは思えない。
教会にはキリストの本当の教えを説く能力がない。
随分以前に同じJohannesの名前で徹底的に(仮に)カトリック護教の立場で書き込みをしてみたことがある。
そして、その立場を貫くことは可能だった。
しかし皮肉なことにカトリック(当然プロテスタントも)はキリストの本当の教えが分っていないことを自ら確認する結果となった。
自分の心は欺けなかった。
キリストの言う「父」とは創世記の創造神ヤハウェではない。
それは真逆であって創造神ヤハウェこそがサタンの正体である。
「聖霊」と「真理の御霊」を混同してはいけない。
すべては「真理の御霊」に他ならない。「父と子と聖霊」とは真理の御霊に一致するから一体なのだ。
真理の御霊は、父なる神となり、子なる神キリストとなり、聖霊となる。
イエズスをキリストと認めるなら旧約の唯一神を退けねばならない。
真理の御霊こそが無始にして唯一であり且つ全てである。
これがキリストの本当の教えであったと認め得る答えである。
162:Johannes
11/07/31 01:47:34.32 CJUTGjBp
>>161 続き
だから、以前にこの書き込みをしたのだ。
372 :Johannes:2011/07/26(火) 16:44:59.30 ID:q7W7iXGP
キリスト教の核心部分は「ヨハネ福音書14章から17章」に集約されている。
そのことに気付いた者は「ヨハネ第一の手紙」の価値を知るであろう。
ヨハネ福音書14章にある次のキリストの言葉は最終回答ででありキリスト復活の真相を示唆する。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
そこを読み解けないのであれば聖書も教会も無意味なものでしかない。
また、このキリストの最終回答は創世記の真相である。
しかしキリスト教会も信者も読み解いているとは思えない。
それがキリスト教の限界である。
163:Johannes
11/07/31 01:49:14.46 CJUTGjBp
>>162 続き
410 :Johannes:2011/07/26(火) 22:17:20.73 ID:q7W7iXGP
>>382
キリストの復活は不可解な出来事である。
しかし「何か不思議な」ことがあったことは否定出来ない。
聖霊降臨についても同様に、それは不可解な出来事である。
しかし自我と意識及び認識され得る現象の原理を考察するならば簡単に否定出来るものではない。
もし真理の御霊が父なる神と子なるキリストの下位にあると考える人がいるならば其れは間違いである。
むしろ真理の御霊こそが生命と存在の根本であって宇宙の真理そのものと考えるのが正しい。
真理の御霊は窮極且つ遍在する真理そのもの考えられる。父と子は真理の御霊は真理の御霊の故に一体と解して誤りはない。
キリスト曰く。
「それ(真理の御霊)はあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」
「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」>>372
このキリストの神観(或いは神の定義)は、それ以前(旧約聖書・ユダヤ人)の神観と決定的に袂を分かって異なっている。
旧約の唯一神は人間を創った存在なのであって、神と人間は最初から分離した異なった存在である。
しかしキリストの説いた神と人間は、明らかに真理の御霊に包括された連続性と一体性を有しているのである。
残念ながら此の事に気付くクリスチャンは殆どいないようである。
164:Johannes
11/07/31 03:33:11.97 CJUTGjBp
>>163 続き
ヨハネ福音書14章20節
「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」
このキリストの言葉は実に大切である。キリストを受け入れる者は父と子の神と一体になる。つまり神として一体なると教えているのである。
これは自我の消滅を意味している。
自我は消滅しても全ての消滅を意味しない。自我は透明となって神の意識に吸収されて一体となり、神の意識は全ての意識を包括する。
それは現在の自分が幼い頃の自分や小学生中学生の頃の自分を包括している様子に類似しているかも知れない。(過去の自分に自我はないことに気付け)
神である私の内に私は存在して生きるのであって、自我の消滅によってこそ真実の命への道が開かれる。だから死んでも生きるのである。
父と子と聖霊なる神は真理の御霊に於いて一体なのであるが、それを超えて一体なのだから、真理の御霊こそが無始にして唯一であり且つ全てなのである。
(なかなかイメージを上手に言葉に出来ないのだが・・)
だからキリストを受け入れる者は自我を透明にしてキリストの愛に一致するための祈りと行いと助けが必要となる。
165:Johannes
11/07/31 03:34:10.36 CJUTGjBp
>>164 続き
聖母マリアがキリストの母であることは福音書を引用するまでもなく明らかであろう。
母とは女性である。イエズスは女性原理により誕生しマリアの母性によって育てられたのである。
つまり誕生は女性原理の為せる業だからである。
ルカ福音書1章35節
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」
ルカ福音書1章38節
「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。」・・(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。
そして母であるが故に我が子の苦難苦痛と死を自らが身代りになりたいとまで思うのが母の愛である。(聖母マリアは既に神を受け入れて死を打ち破っている)
そのキリストの母・聖母マリアが既に神と一体であることは自明の理である。
キリストを受け入れる者にとって聖母マリアの正体は真理の御霊であり女神である。
真理の御霊は聖霊ともなるし聖母マリアともなる。
ロザリオの祈りが聖母マリアの心と一体となり自我を透明にする為の大切な祈りであると分るだろうか。
また、祈る者自身の内に真理の御霊である聖霊の助けが働くことが分るだろうか。
ロザリオの祈りが産み育てると云う女性原理そのものであることが分るだろうか。
今の段階で俺の言葉では、取り合えずこのくらいの下手な説明しか出来ない。
多々批判は承知の上である。俺は決してマリア教徒ではないが敢えて聖母マリアの説明を追加した。
Johannes論は更に展開する独自論(全ての教会を敵に回す異端論) であるが切りがないので此処で終える。
166:子羊通信オススメします
11/07/31 12:05:13.02 Y3qxCNPf
参加お待ちしていますURLリンク(app.m-cocolog.jp)
167:神も仏も名無しさん
11/07/31 13:05:34.26 3iMPBR7B
>>160
いま、いろいろな宗教に関心を持ち始めている。
まだ浅く広くの段階だが、ヨハネスさんの関心ともダブルように思う。
必要なら、ほかの宗教も参考にしましょう。
168:神も仏も名無しさん
11/07/31 13:30:33.08 3iMPBR7B
>>161
創世記2章における「命の息」が「永遠のいのち」だろうと思う。
人間は、創世記3章(蛇の誘惑)で「善悪の知識の木」の実を食べ、
その罪によってエデンの園を追放され、労苦と死ぬ運命を背負うことになる。
キリスト教は「イエスがこの罪を購うから救われる」という教義である。
ということは、イエスは人間の罪だけを清めたのであり、
それによって人間は、罪を犯す前の、神との関係を取り戻すのである。
イエスから「永遠のいのち」を受け取るわけではない。
169:神も仏も名無しさん
11/07/31 13:42:29.76 3iMPBR7B
聖霊は、神そのものであり、神の訪れである。
それは「真理を悟らせる霊」であり、「人間の罪を清める霊」でもある。
人間にはもともと「永遠のいのち」が内在している。
しかしそれは罪によって覆われている。
あらゆる宗教はその罪を祓おうとするわけだが、罪を祓うことに成功すれば、
もともとの「永遠のいのち」が姿を現すことになる。
この「永遠のいのち」が、聖霊とは区別される、人間の「霊魂」である。
170:神も仏も名無しさん
11/07/31 13:52:38.44 3iMPBR7B
>>162
やはり、ヨハネ福音書は聖霊と霊魂を混同しているように思う。
神は「永遠のいのち」である、聖霊は「永遠のいのち」である、
という言い方は正しいと思う。
しかし、個体における「永遠のいのち」は「霊魂」という形になる。
これを区別しないと、ヨハネ福音書のような、理解しにくい文章になる。
神と人間、聖霊と霊魂の関係に、イエスを割り込ませるからか。
171:神も仏も名無しさん
11/07/31 14:23:52.17 3iMPBR7B
>>163
旧約の神観と、新約の神観が違うという指摘はその通り。
新約の神観は、アミダ経や真言宗やヒンズー教に似ているように思う。
信者は、人間→イエス→神 という連続から信仰している。
しかし、そんなに簡単ではないことは、ノルウェーの銃撃事件のように、
キリスト教に関係した数々の凶悪事件が証明している。
旧約にある雅歌は、神と人間の関係をたとえたもの、という見方がある。
かりにそうだとすれば、旧約の神観から逸脱しないだろうか?
172:神も仏も名無しさん
11/07/31 14:36:20.63 3iMPBR7B
>>164
自我の消滅はどういったことなのか。説明を読んでもよくわからない。
わたしという意識は、どこまで行っても消えることがない。
透明になることは、心を脱ぎ捨て、肉体を脱ぎ捨てることで可能になる。
これができれば、人間は透明な「霊魂」そのものになる。
しかしこの霊魂は、神でもなく聖霊でもなく、意識のある個体である。
人間が神になることは決してありえない。
173:神も仏も名無しさん
11/07/31 14:53:16.04 3iMPBR7B
>>165
ヨハネスさんに共感しながらも、大きく交錯してしまったようである。
しかし、その異同を明らかにし、真理を探し、誤りを訂正することの中に、
話を重ねて行く意義もある。なんにせよ、忍耐が基本ですね。
関心を持つ人々の参加があれば、議論がさらに深まるのではないかと思う。
174:Johannes
11/07/31 15:01:10.75 CJUTGjBp
むしろヨハネ福音書の完成度の高さには感動している。
冷静に見るならば新約と旧約の教えはは全然別物と思える。
ただ時代と場所が旧約を背景にした謂わば舞台設定というだけだろう。
だから見かけ上は繋がっているが本質は完全に不連続以上に否定断裂だろう。
自我の説明は本当に難しいくて上手く言葉に出来ないでいる。
いきなり消滅という表現を使ったのが悪かったのかも知れない。
何と言えばいいのか悩む。
変能か変容か変転か・・何れにせよ今あると思い込んでいる自我は確実に消滅する。
しかし暫し留まってしまう場合もあるのかも知れないが。
175:Johannes
11/07/31 15:01:33.35 CJUTGjBp
むしろヨハネ福音書の完成度の高さには感動している。
冷静に見るならば新約と旧約の教えはは全然別物と思える。
ただ時代と場所が旧約を背景にした謂わば舞台設定というだけだろう。
だから見かけ上は繋がっているが本質は完全に不連続以上に否定断裂だろう。
自我の説明は本当に難しいくて上手く言葉に出来ないでいる。
いきなり消滅という表現を使ったのが悪かったのかも知れない。
何と言えばいいのか悩む。
変能か変容か変転か・・何れにせよ今あると思い込んでいる自我は確実に消滅する。
しかし暫し留まってしまう場合もあるのかも知れないが。
176:Johannes
11/07/31 15:02:21.42 CJUTGjBp
すまぬ。ダブった。
177:Johannes
11/07/31 15:39:39.09 CJUTGjBp
イエズス教えた「真理の御霊」はキリスト教固有のものではないと考えている。
全人類と全ての時代に普遍的に有り続ける真理そのものだろう。
だから、それは宗教の違いの垣根を超えるだろう。
もしかしたら宗教に馴染まないのかも知れないし低級な宗教は気付くことがないとも思う。
その表現方法がが変わると宗教紛争になるだけだろうとも思える。
>>173
十人十色だと思うよ。同じ言葉を使っても異なった概念として捉えていることだってあるだろう。
俺と君は同じ真相の追究者だよ。そこに真理を見出したいことを動機としている仲間だろうと思う。
そういう日本人が増えるならば好ましいことだと思う。盲信や狂信は恐ろしいことだ。
また、逆に目先のことだけに囚われて命の真相に背を向けていまうのは哀れだと思う。
178:電車男販売。
11/07/31 16:10:45.76 ASy7aruZ
キリスト教は暖かい宗教団体ですよね。
179:神も仏も名無しさん
11/07/31 18:47:02.84 ITm6xpHe
>>174
かってはヨハネ福音書を繰り返し読んでいた。
特に14章から17章にかけては、歌い上げるような高揚感があり、
しびれるようなよさがあった。ヨハネは格調が高い。
180:神も仏も名無しさん
11/07/31 19:12:00.30 ITm6xpHe
自我の消滅については、次のように区別する方法もある。
日常的な自分 → 自我
その自我が消滅した後に現れる本当の自分 → 真我
唯識で区別することも可能かもしれない。
意識、無意識(マナ識・アラヤ識) → 自我
意識と無意識が脱落した後の状態 → 根本識(霊魂、アートマン)
181: 【東電 68.5 %】
11/07/31 19:55:07.58 yG7Feypn
>>180
心理学くらい勉強したら?
182:神も仏も名無しさん
11/08/01 13:20:13.69 7BUNFVvT
>>181
何のこと? 唯識の断りを入れてあるよ
183:神も仏も名無しさん
11/08/01 13:28:52.22 7BUNFVvT
雅歌を読み返したが、やはりソロモン王と、ハーレムに所属する娘との恋歌
程度にしか読めない。雅歌を聖書に残した理由がわからない。
ソロモンの歌だと信じられてのことか。
雅歌に神と信者の関係を読む? 旧約の時代はそういった神観ではないし、
そういった読み方は神を冒涜するように感じられる。
184:神も仏も名無しさん
11/08/01 13:45:15.69 4er68Jjo
雅歌は古今和歌集なんだよ・・・・
百人一首も大体が恋の詩が多いだろ
まあそういう息抜きも必要だって事で編纂したんじゃねーかな?
まあ神様よか近くの若い姉ちゃんの方がソロモンも好きだったって
事じゃね?
185:神も仏も名無しさん
11/08/01 18:35:24.73 R73FAVSx
やっぱしそーだよね。ソロモンの箴言、コレヘトの言葉が続くと、
なんか気が滅いってくる。雅歌でちょっと一服ですかね。
いままでそんな感じで読んでいたから、読み方としては正解だったか。
議論スレで「神と信者の関係」だと聞き、まさかと思って考えていた。
186:Johannes
11/08/02 00:50:33.28 JfCac0fQ
ユダヤ民族のものと認めた文献は糞も味噌も旧約聖書に保存されて来ただけだ。
正直と言えば正直だが、それ以上に唯一創造神神話に騙された殺虐性に満ちた恐るべき愚民であった。
そんな野蛮な人殺し民族の創造神が唯一の神とは、それだけで十分に馬鹿げた話しと云うものだ。
187:神も仏も名無しさん
11/08/02 19:21:45.72 r+NmZQnI
聖書における、唯一神という強烈なメッセージと、
戦いによって成立し、崩壊したユダヤ国家の歴史とを区別した方がいい。
肥沃なカナンは、奪い奪われるを繰り返した危険な場所であったし、
大国の野心が駆け抜けて行く通り道でもあった。
当然、戦いは熾烈をきわめ、残虐なものにならざるをえなかった。
188:神も仏も名無しさん
11/08/02 19:49:26.23 r+NmZQnI
聖書(特に旧約)の唯一神のメッセージは正しい。
これはギリシャ神話やヒンズー教などの多神教とは隔絶した神観である。
聖書は、ユダヤの歴史にダブらせ、唯一神を伝え、探し続けている。
読者も唯一神を聖書と共に探すべきだろう。
聖書の話は、歴史とたとえ話と作り話とが混然一体になっている。
読者はそこから唯一神のイメージを読み解く必要がある。
神とは何か。聖書はそれなりの答えを出しているのではないだろうか。
ただ、それを受け入れられないだけのようにも思う。
189:神も仏も名無しさん
11/08/02 20:37:45.13 r+NmZQnI
なぜ人間は、神に性別があるなどと思っているのか。
神に性別などあるわけがない。
神に性別がないとすれば、多くの宗教を大鉈で整理することができる。
性別を持つ神は神ではないと断言できる。
キリスト教でも、ヒンズー教でも、仏教や密教でも、神道においても、
その神もあの神もすべて神ではないことになる。
見神をした川面凡児、密教行者、ラーマ・クリシュナ などなど
残念だが、あなたがたの見た神仏は幻覚にすぎない。
190:神も仏も名無しさん
11/08/02 21:21:04.14 r+NmZQnI
坐禅や瞑想の最中に「神仏を見る」こともあるのだろう。
しかしそれはたぶん、幻覚であり魔境である。
仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。
父母に逢うては父母を殺せ。・・・始めて解脱を得ん。(臨済録)
性別のある神仏など、しょせんニセモノであると禅宗が教えている。
この教えが正しいなら、川面凡児も、ラーマ・クリシュナも真実の神仏を
見たわけではないことになる。イエスは男性だから神ではない。
191:神も仏も名無しさん
11/08/02 21:55:07.31 r+NmZQnI
神に妻がいるわけがない。ましてや子供などいるわけがない。
家族関係が登場するような神々は、人間の家族関係から想像されただけの
神々でしかない。これはいったい何を意味するのだろう。
「神→人間」という関係の神ではなく、
「精神→物質」という関係でとらえられた神ではないだろうか。
192:Johannes
11/08/02 22:05:17.88 FAxY95iP
>>187-189 完全な間違いである。
>>187
「>>区別した方がいい。」
・・区別する理由がない。理由もなく区別したいのは、自分個人の信仰に都合がいいからであろう。
しかし旧約聖書それ自体が、神と殺虐性に満ちた出来事の関係性を一体的に記述しているのだから区別出来るものではない。
>>188
最初の前提に根拠がない。
「>>聖書(特に旧約)の唯一神のメッセージは正しい。」
・・いきなり、そう「断定」した前提から論を展開しているが、その断定の根拠となる理由が一切示されていない。
その前提は、個人の信仰に過ぎない。
>>189
前レス>>188と同様、最初の前提に根拠がない。
「>>神に性別などあるわけがない。」
・・いきなり、そう「断定」した前提から論を展開しているが、その断定の根拠となる理由が一切示されていない。
その前提は、個人の信仰に過ぎない。
----------------------------------------------------------------------------------------------
「個人の信仰」を前提にして、いくら論を展開されても、それはその人個人の信仰に帰結するだけの内容でしかない。
個人の信仰それ自体は、第三者の根拠とは成り得ない。この人は、それに気付くことが出来ないでいる。
信仰が人を盲目にしてしまう典型的な書き込み事例と言える。
193:Johannes
11/08/02 22:08:53.11 FAxY95iP
>>190-191
「個人の信仰」を前提にして、いくら論を展開されても、それはその人個人の信仰に帰結するだけの内容でしかない。
個人の信仰それ自体は、第三者の根拠とは成り得ない。
194:神も仏も名無しさん
11/08/02 22:26:20.04 r+NmZQnI
痛がる子供に「痛いの痛いの飛んでけー」と呪文を唱えれば痛みが和らぐ。
神々の家族関係は、この言葉の魔力によって成立するのかもしれない。
神々が実際に存在するかどうかは問題ではない。
実際に存在するかのように語られるなら、それを聞く側は子供と同じような
心理状態に落ち込んで、神々を心から信じてしまうのだ。
しかし、神を信仰するというより、言葉を信仰しているという構造である。
偽薬によるプラシーボ効果のようなものである。
古代人の信仰とはそういったものであったろうと思う。そして実は、
現代人の信仰も同じようなものである可能性が非常に高い。
195:神も仏も名無しさん
11/08/03 12:47:22.63 e2G8eevC
目の前に中身が見えない福袋が並べられている。
売れ残り品や、使い物にならないLLサイズが入っているかもしれない。
福袋を買って損か得かは、実際に買ってみないとわからない。
宗教もこれと似たようなものだろう。実際に体験しないとわからない。
196:神も仏も名無しさん
11/08/03 17:43:40.72 wK2lwO8b
福袋の中身を占うことは不可能なわけでもない。
それを売っている店の看板は信用できるか。値段は妥当か。
日ごろの対応は誠実か。商品の能書きは合理的か。買うことを強いないか。
必要以上に隠そうとするような、怪しい素振りはみられないか。
197:神も仏も名無しさん
11/08/03 18:41:33.31 rG8Ik2A+
あとインターネットの口コミサイトも参考になる。たとえば福袋が鬱袋になった店の情報とか。
実際に買ってからのお楽しみとかいうのは無責任。金まるまる損することあるからね。
198:神も仏も名無しさん
11/08/03 19:42:55.32 +/irzuw/
淋しくて苦しくて、ワラをもつかむ気持ちで宗教にすがったら、
金を損した上に、心にダメージを受けるのでは、踏んだりけったりだね。
それでもだまされる人がつぎつぎに出てくる。
淋しくて苦しくて、という思いにも原因があるのかもしれない。
199:神も仏も名無しさん
11/08/03 20:06:13.43 +/irzuw/
なんとか気持ちを持ちこたえられるなら、
ネットで調べたり、宗教関連の読書をする方が無事だろうと思う。
これなら金も少なくてすみ、自分で考えながら前進することができる。
信じれば救われる、のでは、いくらなんでも安直過ぎるだろう。
いつの時代においても信仰に近道はない。
むしろ遠回りしよう。急がば回れ、弁証法とフロイトをすすめたい。
ささくれた気持ちはフロイトが癒してくれる。
200:神も仏も名無しさん
11/08/03 20:15:51.60 cTPLREdS
一言も話すことなく死んでいった赤ちゃんがたくさんいるのに、あなたたちは「はじめに言葉ありき」という言葉を信じますか?
201:神も仏も名無しさん
11/08/03 20:33:10.52 +/irzuw/
はじめに存在ありき、の方が真実ですね。
202:神も仏も名無しさん
11/08/03 20:38:48.31 aGfY9HNO
mixiID=33692818
のぞみ=宮崎康治=mixiネーム『さくら』
203:神も仏も名無しさん
11/08/03 21:46:21.45 nkHvRc+b
ヨハネの黙示録に書かれている火の洗礼はいつ起こるのですか?
204:Johannes
11/08/04 00:32:33.95 lVNbJYzY
>>199
家に神棚や仏壇があるだろう。
祓詞(はらえことば)と神棚拝詞。般若心経を唱えればよろしかろう。
お金など掛からない。
205:神も仏も名無しさん
11/08/04 10:42:04.16 yF1FX0xx
世界が沈むほどの水はどこにあるのか
どこにいって今は陸地があるのか
206:神も仏も名無しさん
11/08/04 13:19:31.12 HgbhRtuO
南極の氷がとけたらどうするの
207:神も仏も名無しさん
11/08/04 13:33:10.84 gbn9I8Kv
>>203
ヨハネ黙示録に火の洗礼の話がありましたか。
黙示録にあるハルマゲドンとか、千年至福のあとの最終決戦のことなら、
それがいつ起こるかは「神のみぞ知る」だろうと思う。
それを何とか読み解こうとするのはむなしい結果に終わるだけ。
208:神も仏も名無しさん
11/08/04 13:45:32.38 gbn9I8Kv
>>204
信仰だけの問題なら、形式や見栄えにこだわることはないと思う。
わたしの場合は、心がけや願い事を毎日、単語カードに別々に書き取り、
それを祭壇に置き、さらにそれを心でひとつづつ唱えていく。
自分なりの祈りができるので気に入っている。
209:神も仏も名無しさん
11/08/04 17:24:03.13 HgbhRtuO
>>208
それで願いは叶ったのかな
210:神も仏も名無しさん
11/08/04 18:13:19.36 1pWVV1yS
>>205
ノアの箱舟もそうだが、世界中に洪水伝説がある。
たとえばムー大陸やアトランティス大陸のように、大地が海に沈めば、
世界中で大洪水が起こる可能性がある。
211:神も仏も名無しさん
11/08/04 18:23:44.82 1pWVV1yS
>>209
あなたは神を信じている? 祈ったことがある?
あなたの祈りは聞いてもらえないの?
212:神も仏も名無しさん
11/08/04 18:38:37.73 HgbhRtuO
>>211
祈りをきいてもらえたことあるの?
213:神も仏も名無しさん
11/08/04 18:44:10.16 1pWVV1yS
>>212 → >>211
質問するなら、自分が逆に質問された時には誠実に答えるべきだろう。
これが礼儀ではないだろか。
214:神も仏も名無しさん
11/08/04 18:52:08.74 HgbhRtuO
>>213
208の人なの?
215:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/04 20:07:01.85 plR+5CS3
火の洗礼などないよ。
ストア派の世界大火が元ネタじゃね?
ストア派は自然界は最も純粋な火から生じ→空気→水→土という具合にヒューレー(素材)が
生じたと考える。そして、万物は最終的に始原である火に戻る、つまる世界大火により万物は更新され、
その後再び同じ世界の再生が始まると説く。
ソースの黙示録とか牧会書簡とかは小アジアのヘレニズム系都市で種々の
異教や哲学の影響を受けただろうし、小アジアでも大きな勢力だったグノーシスにも似た考えがある。
216:神も仏も名無しさん
11/08/04 20:14:19.55 UnIsPxq4
なんか信仰したいけど いろいろ有りすぎて わけわかめ
217:神も仏も名無しさん
11/08/04 20:22:11.48 e4NpN1y8
プロテスタントはいろいろありすぎてわけわかめなので初心者には難しいと思います。
初心者は正教かカトリックにいったほうが無難です。プロテスタントはピンきりなので、
正教やカトリックでキリスト教の基本的なことを勉強してからいっても遅くありません。
218:神も仏も名無しさん
11/08/04 20:25:44.75 UnIsPxq4
>>217 さんすこ
もうさー なんも信じれん 話だけでも聞いてくれるもんなのか
219:神も仏も名無しさん
11/08/04 21:53:36.93 B4bNVHW4
てかさ
ちゃんとしたキリスト教
学ぶのってむずくない?
(とくに日本では)
最近自己中な教会も増えてるから
220:Johannes
11/08/05 01:51:09.69 0zlsUQgo
>>219
キリスト教会の教義には何の価値も見い出せないであろう。
洗脳されて心と時間と労力を奪われ、教会の金蔓にされることがないようくれぐれも注意してほしい。
>>216
何故、信仰したいと思うのか。
信仰することに価値があると思うからなのか。断言するが何の価値もない。
自ら「ある」と認められないものを盲目に信じることなど愚かなことだと思うがな。
俺が日々神棚に拝礼するのは信仰しているからではない。
そこに高貴な御神霊がおわしますと認めているからだ。
俺が日々仏壇に合掌し読経するのは信仰しているからではない。
それが仏様と御先祖に通じると認めているからだ。
221:神も仏も名無しさん
11/08/05 06:50:56.72 8lxraORY
仏教では言霊が信じられているから経があるが、キリスト教では経を批判している。
どちらが正しいのでしょうか?
222:神も仏も名無しさん
11/08/05 13:38:38.99 d/WXJ8V4
聖書の冒頭、創世記では、言葉による創造が行われている。
ヨハネ福音書でも、初めに言葉があった、言葉は神であった、とある。
聖書に言霊信仰が存在することは明白である。
223:神も仏も名無しさん
11/08/05 13:52:41.96 d/WXJ8V4
キリスト教は新約と旧約によって成立する。
仏教の経にあたる聖書を、根本的に否定しているわけではない。
しかし、キリスト教を信じる者同士で争っているのは、
聖書に見られる矛盾や混乱や曖昧さや解釈の相違などに原因がある。
ひとつの、聖書というコップの中の争いである。
224:神も仏も名無しさん
11/08/05 14:02:51.30 d/WXJ8V4
では仏教で、経による統一がなされているかと言えば疑問である。
アミダ経は念仏、ホーレン経は題目、真言宗はマントラや陀羅尼で救われ、
禅宗は自力による悟りを強調している。
アミダ経、ホーレン経、真言宗は、確かに言霊を重視している。
総合大学のような天台法華宗も同じ仲間かもしれない。
225:神も仏も名無しさん
11/08/05 14:23:59.45 d/WXJ8V4
神道、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教などにも言霊信仰がある。
この言霊信仰の本質とは何か。これが重要だろう。
われわれ人間は、昔から今に至るまで、気がつかないうちに、
言葉に操られ、言葉に踊らされていないか。
映像(イメージ)に操られ、映像(イメージ)に踊らされていないか。
宗教だけの問題ではない。マスゴミは人間の弱点を見抜き、
テレビや新聞で洗脳工作を常態化させている。
洗脳から解放されるには、マスゴミを切り捨てる以外に方法がない。
226:神も仏も名無しさん
11/08/05 21:33:57.33 KpM66t4J
日本キリスト教団も韓国人だらけ、部落の性交団体になってしまったな。
あーやだやだ
227:神も仏も名無しさん
11/08/05 22:46:55.78 /dwtjmIn
わが家は新聞もテレビもない。そのお陰で、刺激がなく、
知らないからマスゴミの堕落にも腹が立たない。嫌なら買わなければいい、
という、ごく当たり前のことを真理だなあと実感するこの頃。
228:神も仏も名無しさん
11/08/06 20:49:02.14 tRBEKFkr
インターネットから雑音が入らなくてよかったね^^
もうネットも止めたら?
229:神も仏も名無しさん
11/08/06 20:55:21.33 XJljO/Gk
「キリスト教の聖戦論」についてどう思いますか?
URLリンク(app.m-cocolog.jp)
230:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 20:57:16.74 mGYUiIZR
そもそもヨハネ伝のロゴスを「言葉」と訳すのは間違いだろ。
ロゴス神学はそれ以前のストア哲学やフィロンのロゴス論、グノーシス思想とか
いろいろな神秘主義思想の潮流の中で培われた哲学用語で、そもそも
日本語に訳しきれるようなもんじゃない。「言葉」なんて訳されても、本当の意味が分かる奴はいないだろw
231:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:06:09.66 tRBEKFkr
ギリシア語の日常の言葉としては、「ロゴス」はまず第一に「言葉」のことである。
しかし、「ロゴス(logos)」はいろいろな場面で使われる言葉であって、その意味は
すっきりとはわかりにくい。もともとは、「一つに集める」という意味の動詞「レゲイン(legein)」
に由来するらしい。
「一つに集める」とは、バラバラに散らばった事物や事実を、数えながら筋目・秩序
にしたがって「とりまとめる」という、一種の秩序をもつ行為のことである。
「ロゴス」が「言葉」のことだというときには、一つひとつの「単語」が文法や用語法と
いう「秩序」にしたがって、まとまって全体として統一的な意味をかたちづくるという
事態が考えられいるわけで、そこにはあの「レゲイン」の意味合いを感じ取ることが
できるだろう。
ここから、「ロゴス」は、たんに「言葉」だけでなく、秩序、意味、理由、秩序、比例、
算定など、なんらかのパターン(型)、規則的なもの、「理(ことわり)」をもつことを
広くあらわすようになる。
しかし、人間がそのようにバラバラの事物や事実を発見してまとめ上げるという作業を行う
ことができるのは、他の動物とはちがって人間は生まれながらに「理性」をそなえ、
「言葉」をつうじてそれを「筋の通ったかたちで表現する」ことができるからである。
そこから、「ロゴス」には、さらに、「理性」、「言論」、「説明」などといった意味が
付け加わってくる。
232:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:11:49.07 tRBEKFkr
>日本語に訳しきれるようなもんじゃない。「言葉」なんて訳されても、本当の意味が分かる奴はいないだろw
「言葉}とは、正確には、「神の真理」「光」のことなんだよ。
この(神の真理)にあらゆる「神の権威」が備わっているということで、
神は全能と要られているんよ。つまり、神の真理は「み言葉」であり、主ご自身を意味する。
233:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:13:36.59 mGYUiIZR
いやいやヘラクレイトス以来の哲学用語としてのロゴスを単純に「言葉」なんて
逐語訳するから、「言霊」がどーだとかアホな議論が出て来るんだろうがw
234:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:15:27.49 mGYUiIZR
初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共に在った。ロゴスは神であった。
これでいいんだよ。無学な日本人にはちんぷんかんぷんだろうが、誤訳するくらいなら、
読者に勉強させろって話
235:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:18:32.46 mGYUiIZR
>>231
だから、それも日常言語としてのギリシア語を前提とした辞書的な語彙であって、
哲学用語として神秘性を帯びた世界の原理・秩序・神性としてのロゴスの意味とは完全に合致しないんだよ。
ヨハネ伝以前にストア派はロゴスを神と同視していたし、であれば、無理に日常言語の語彙に拘らず、
哲学用語として「ロゴス」と訳しておくべき。
236:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:19:30.69 tRBEKFkr
聖書で「ロゴス」は「み言葉」であり、神の真理を意味する。
だから、「み言葉」は、主であるキリストを意味する。
神の真理とは、神の愛であり神の英知のこと。
この中に神の全能があるということ。
237:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:21:27.13 tRBEKFkr
グノーシスの言ってる叡智ってどこから来るの?
人の理性はどこに起源があるの? 脳みそから?
238:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:22:34.18 mGYUiIZR
お前のスエ~デンボルグ語って宇宙人言語だろw
俺らには読解不可能だから金星人とでも話してろw
239:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:26:41.44 tRBEKFkr
>>238
答えられないのか?
240:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:28:56.33 tRBEKFkr
クズ哲学^^
241:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:30:11.32 mGYUiIZR
人間の知的能力は全部脳みその産物だよ。
当たり前の話だろw
242:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:38:07.89 Y34QShDm
アラム語で言葉を意味する語って、ギリシャ語のロゴスとは
かなりニュアンスが違うのかな。
243:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:39:07.83 tRBEKFkr
みなさん、これがグノーシス哲学の本質だそうです。
もうグノーシスは唯物論そのものですね^^ ほほー
244:シモン・グノーシス ◆/bVPRrlaFM
11/08/06 21:40:38.37 mGYUiIZR
ってかヨハネ伝は最初からギリシア語で書かれてるし、マルコ伝と違って
アラム語で考えた思想をギリシア語に転置する思考の跡も文献学的に認められないから、
アラム語でロゴスがどうとか考える意味もない。
245:神も仏も名無しさん
11/08/06 21:57:08.74 tRBEKFkr
ロゴス/ことば/言葉
「ロゴス」は古典ギリシャ語からヘレニズム時代のコイネー・ギリシャ語に至るまで、
人間の言語活動と理性に関わる実に幅広い意味で用いられた。
それは発言、発話、表現、噂、事柄、計算、知らせ、講話、物語、書物、根拠、意義、
考察、教えといった日常用語のレベルから、「世界理性」や「指導的理性」などの
哲学的述語(ストア派)のレベルにまでわたっている。
ナグ・ハマディ文書を含むグノーシス主義文書は、前者の日常的な語義での用法も、
たとえば『復活に関する教え(ロゴス)』のほか、随所で見せているが、神話論的に
擬人化して用いる場合が多い。その場合の「ロゴス(あるいは「言葉」)」は、
プレーローマ内部の高次のアイオーンであり、神的存在の一つである。
246:神も仏も名無しさん
11/08/06 22:37:11.57 r8i5IN8i
>>229
まず、あなたの感想を書いてくれたらよかったのにー
247:神も仏も名無しさん
11/08/06 22:50:19.38 r8i5IN8i
>>228
ネットがあるから、テレビも新聞もやめたのですねー
やめてみて気がついたのは、PCニュースに羅列されている項目を、
どう選択するかに頭を使うことだろうか。自分なりの編集をしている。
取材はマスコミだが、それを自分で料理して食べている。
248:神も仏も名無しさん
11/08/06 23:08:58.88 r8i5IN8i
言霊・・・言葉が人間に強い影響を与えることは経験的な事実であり、
それを知ることで言葉を操る祭司が登場する。そんなことは当たり前であり、
わざわざ言われなくても知っている、では足りない。
言葉の力を学び、実際に利用することで言霊というものが成立する。
言葉には人間を左右する力がある。これが言霊である。
249:Johannes
11/08/06 23:48:20.11 rFw3XXeb
言霊は音声ばかりではなく文字にも宿るものである。
2chの書き込みで腹を立てたり傷つくこともあるだろう。
それはオンラインでディスプレイを通しても言霊が作用している証拠である。
「言霊」には個人の意識に直接働きかけるものが一般的である。(しかし特殊な言霊もある)
また「念」は言霊に類似しているが、一般に言霊が主に聴覚・視覚から意識へと伝搬し、更に自律神経から全身へと作用するのに対し、
念は無意識に入り込み、そこから自律神経を通して全身に作用するし、また一方で意識へ作用する。
例えば誰かに呪いを掛けた場合(それには或る要件を満たす必要がある)、
呪いを受けたものは体調を崩して更に悪化すれば発病するし、同時に精神(意識)が錯乱して奇声を上げたり幻覚幻聴に苦しむことになる。
最悪、死に至る。
言霊を甘くみてはいけない。
念(呪い)を悪用することは厳に慎まねばならない。
250:神も仏も名無しさん
11/08/07 00:16:12.51 /bAoSGmP
>>249
ヨハネスさんの話には全面的に同意したい。
そこでさらに、言葉だけでなく、映像にも力があり、行為にも力がある、
のではないかと。聖書にもそういった話が出てくる。
ホセア書、エゼキエル書4~5章、エレミヤ書などには、預言者が未来を
象徴的に演じると、それがやがて現実になる。
251:神も仏も名無しさん
11/08/07 00:39:24.50 /bAoSGmP
言葉、映像、行為を象徴的に演じる → それがやがて現実になる。
ワラ人形に五寸釘を打ち込むのも、同じ文脈にある。
この成り行きが呪術の基本的な構造なのだが、
これこそが信仰の正体ではないのか。
つまり、信仰は精神と肉体との関係であり、
神が排除された形で成り立っているのではないか、という疑問である。
唯物論ではないと思っているが、実際には唯物論ではないかという話である。
わかってもらえたろうか。うまく表現できなくてもどかしい。
252:Johannes
11/08/07 02:03:04.84 zH32gTQ6
人は心構えと日常の実践を通して神仏にも悪鬼夜叉にもなり得る。
もし自らの存在を平安(憎しみ怒り恐れ悲しみを克服した清らかで穏やかな慈悲に満ちた)な存在としたければ、
深く「仏法僧」に帰依する道こそ確実であろう。神仏になるとはそういうことなのだ。
その為には正しい修行が必要である。それは難しいものではなくお金が掛かることでもない。
ただ継続することが必要となる。
修業とは神仏と一体となること(即身成仏)に他ならない。
それはその時だけのことではあるが日々継続するうちに徐々に自我が変化して行く。
もしキリスト教に依ろうとするならば、現代ではロザリオの祈りだけが唯一残された武器だろうと思われる。
この祈りは誰にでも出来る簡単なもののようではあるが、その実は非常に高度な祈りであって簡単ではない。
俺は、一見難しそうではあるが、実は佛教の修行の方が日本人には馴染み易いし、簡単で確実だと思っている。
霊は宿るものであって善神善霊もいれば邪神悪霊もいるから怪奇な場所に近づいてはならない。
夏の肝試しで心霊スポットへふざけて行く若者がいるようだが、あれは非常によくない。
「トイレの神様」と言う歌が流行っていたが、あれは満更嘘ではない。
理性と感性を研ぎ澄ませることで悪霊の存在を見抜くことが出来るようになる。
253:神も仏も名無しさん
11/08/07 10:02:18.96 KOPNKnfv
>>252
いろいろ大切なことが書き込まれている。→ いずれ取り上げたい。
なかでも最後の文、「理性と感性を研ぎ澄ませる」という話には納得する。
ぼんやり眺めていてはダメ。耳を澄まし、肌で感じることが大切ですね。
それらをもとに、ほんの少し考える。
254:神も仏も名無しさん
11/08/07 10:44:19.36 KOPNKnfv
正月やお盆の習慣は、親族の霊を家に迎え、供養し、家族の無病息災を願い、
また元の場所にお帰りいただく、という話である。ここで重要なのは、
親族の霊がそこにいる【かのように】もてなすことである。
密教の修行もこれと同じである。大日如来や不動明王を迎え、供養し、
鎮護国家などを願い、また元の場所にお帰りいただく、という話である。
やはり、大日如来などが真実そこにいる【かのように】行われる。
255:神も仏も名無しさん
11/08/07 11:13:55.18 KOPNKnfv
少なくても密教の修法は、インドのプージャ(供養)に源流がある。
基本は供養である。ただ本尊が目的に応じて入れ変わり、
供養の道具立ても少しづつ変わっていく。
密教で求められるものは、如来や明王をまざまざとイメージするような、
イメージ形成力である。月輪観は心に月をイメージし、それを操る。
阿字観は梵字の阿字から大日如来をイメージする。
密教の修法は、供養する中で、たとえば大日如来をイメージし、
そのイメージにお願いしたり、そのイメージと一体になることだったりする。
それを助ける道具立てが、マンダラや真言や印なのである。
256:神も仏も名無しさん
11/08/07 11:29:54.82 KOPNKnfv
密教はイメージ形成力を重視する。それと同時に、それを補助する道具にも
きわめて強い関心を持っている。マンダラや真言や印である。
要するに、人間の心に、明瞭なイメージを形成しようという意図がある。
密教僧はそのイメージに祈り、そのイメージを操作するわけである。
そのイメージが、実際に神仏と関係しているかどうかは疑問である。
またさらに、信仰がイメージであるなら、太元帥法による調伏護摩よりも、
呪いのワラ人形に五寸釘を打ち込むほうが効果があるだろう。
257:神も仏も名無しさん
11/08/07 11:46:48.32 KOPNKnfv
さらにいえば、エゼキエル書4章の方がより明瞭なイメージになる。
エゼキエルが作る箱庭の中にイスラエルの未来が示される。
人の子よ、れんがを一つ取って目の前に置き、その上に都であるエルサレムを
刻みなさい。そして、これを包囲し、これに向かって堡塁を建て、塁を築き、
陣営を敷き、破城槌を周囲に配備しなさい。自ら鉄の板を取り、それを自分と
都との間に鉄の壁をとし、あなたの顔を都に向けなさい。
こうして都は包囲される。あなたがそれを包囲するのだ。
これはイスラエルの家に対するしるしである。
258:神も仏も名無しさん
11/08/07 12:07:39.95 KOPNKnfv
いままでの話で、密教(真言、天台)が何をやっているのか、
おおよその見当がついたのではないかと思う。
意外や、人間とは何か、神仏とは何かをまじめに追求しているのではない。
心の中に、神仏をイメージし、これを操ろうという話である。
呪術を中心に構築された宗教と言っていいだろう。
宗祖である空海はこんな宗教を望んでいたのだろうか。
259:神も仏も名無しさん
11/08/07 13:24:43.21 KOPNKnfv
空海は24歳のころ、虚空蔵求聞持法で悟ったと言われる。
この法は雑密(密教)であり、虚空蔵菩薩を供養するものである。
かれは、室戸岬で修法中、明けの明星がやって来るのを見る。
そのころの空海が、貧しかったことを思えば、修法の重点は供養より、
求聞持法の眼目である、陀羅尼をひたすら唱えることだったろうと思われる。
つまりかれは、陀羅尼をひたすら唱えていた、ということである。
これが空海の原点である。
260:神も仏も名無しさん
11/08/07 14:31:44.98 KOPNKnfv
空海の修行と、現在の密教とを比較すれば、何か変だと思わないか。
イメージの形成力も大事だろう。しかし空海は、陀羅尼を反復して解脱した
のではないか。空海をまねたらいいのに。
月輪観、阿字観などの、密教の観想法では解脱できないと思う。
さらに言えば、真言、陀羅尼、法具、マンダラ、印形なども邪魔でしかない。
現在の密教路線は、解脱の方法としてまちがっているように思う。
261:Johannes
11/08/07 15:33:35.00 zH32gTQ6
先にも書き込んだが言霊を甘く見てはいけない。
「真言」は言霊とよく似ているが厳密には異なる。
真言を唱えるならばその音声には霊的波動があって必ず御仏に通じ且つ御仏が現れる。
何も感じないかも知れないがそれは事実である。
真言の霊的波動は阿頼耶識の深奥に達し、それはこの世界の何処へでも通じるのであるが、
その阿頼耶識(意識世界)と此の世(物理世界)がどのように連続した構造になっているのかまでは分らない。
御仏や御先祖の霊がそこにいる「いるかのよう」に考えるのは最初に必要な基本的な心の持ちようである。
しかし、やがて本当にいることが分るようになる。
その際に重要になるのが共時性(シンクロニシティ)現象、そして夢(鮮明に覚えている夢・明晰夢・夢枕に立つなど)である。
また共時性と不思議な夢が相互に関連する場合も少なくない。
そこで必要になるのが研ぎ澄まされた理性と感性である。それら現象に何らかの意味・メッセージがあることに気付くのである。
それは虫の知らせ程度のものではなく、より具体的な得心である。
その段階では既に「いるかのように」ではなく「いる(居られる)」と分るようになり全てが事実と知るようになる。
キリスト教ではまず聖書を読んで学ぶことを先行させつつ祈るのが一般的である。
しかし佛教では全く逆である。まずは実践である。
例えば般若心経の意味を知る必要はない。まして御真言の意味を知る必要はない。
何かのお経の意味が知りたければ、それは後からでも十分である。
まず先に手を洗い口をすすぎ身なりを正して神棚に拝礼をする。
それから仏前に正座して姿勢と呼吸を整えるのである。作法をないがしろにしてはいけない。
因みに佛教の読経や真言念唱はキリスト教の「祈り」とは全く性質を異にしたものである。
262:神も仏も名無しさん
11/08/07 18:14:40.04 Sf8Ztdx6
o come, o come, emmanuel 賛美歌94番を聴いてはまりました。 日本語訳だと意味がわかるのですが
英語の歌詞だとイスラエルが出てきますよね。旧約は、ほとんど、知らないので( 歴史的な概略は多少知識があるのですが)
意味がピンときません。
意味や解説などをお教えください。
異邦人の神ということで日本人のみならず世界との接点が出来るのに イスラエルという国をみなさんはどう捉えていますか?
263:Johannes
11/08/07 18:31:07.44 zH32gTQ6
>>262
【ヤハウェ(エホバ)の正体は悪魔である】
あなたがた(ユダヤ人)は自分の父(ヤハウェ=エホバ)、すなわち、悪魔(ヤハウェ=エホバ)から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。
彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。 (ヨハネ福音書 8:44 キリストの言葉)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【ヤハウェ(エホバ)が悪魔である証拠】
ユダヤ人はモーセやヨシュアやダビデのような人物が現れてローマの支配を覆して、
唯一なる神の選民に相応しい国を回復してくれることを待望していた。
その人物こそが「メシア」だと信じていたのだ。
出エジプト記にあるようなエジプト人虐殺における神の勝利と栄光。
ヨシュア記にあるようなカナン諸国人虐殺における神の勝利と栄光。
サムエル記にあるようなペリシテ人虐殺における神の勝利と栄光。
ユダヤ人はこれらを信じていたが嘘だった。
キリスト(メシア)はユダヤ人の待望していたメシアと違うから処刑されたに過ぎない。
結局ユダヤ人はローマに決戦を挑み西暦70年から73年マサダの戦いで全滅した。
聖書の神は最初から人殺しの神(悪魔)なのであって偽りの父であることが史実として証明されたのである。
尚、現在のユダヤ教徒(ユダヤ人)の人種的起源は、その九割が東ヨーロッパ起源のアシュケナージであって、
マサダの戦い以前の正しい血統を持ったユダヤ民族は流浪と離散の果てにスファラディと呼ばれるようになったが、
民族としての血統の正しさは事実上失われている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。 (出エジプト記 20:5-6 ヤハウェ=エホバの言葉) ← 【嘘でした】
264:神も仏も名無しさん
11/08/07 19:17:57.75 Rr46novp
>>261
真言については、インドの言葉(サンスクリット)ぐらいの認識しかない。
いまのところ日本語以上の意味を持つとは考えられない。
ただヨハネスさんの指摘は覚えておく。やがてピンとくるかもしれない。
265:神も仏も名無しさん
11/08/07 19:24:30.15 Rr46novp
>>261
言葉の定義ですが、唯識のマナ識、アラヤ識をどう見ますか。
フロイトなら意識、無意識(マナ識・アラヤ識)だろうと思う。
ユングだと意識、無意識(マナ識)、集合的無意識(アラヤ識)ですか。
266:Johannes
11/08/07 19:34:09.55 zH32gTQ6
>>262
(動画) URLリンク(www.youtube.com)
(以下、コピペです)
O come, O come, Emmanuel,
いらっしゃい、いらっしゃい、イマヌエル
And ransom captive Israel,
(罪に)囚われているイスラエルを贖罪(しょくざい)して下さい。
意味は:イスラエルの人々が罪を犯していますが、イマヌエル様がその人々を救うべきだと歌う人は言っています。
That mourns in lonely exile here
that=Israel
イスラエルは寂しい「故郷から引き離されているところ=exile」で嘆いています。
Until the Son of God appear.
神様の息子が現れるまで。
(Refrain)
Rejoice! Rejoice!
嬉しくなれ!嬉しくなれ!
Emmanuel shall come to thee, O Israel.
thee=you(ドイツ語のdirです。)
イスラエルよ、イマヌエルはあなた(イスラエル)に行くべきだ。
(shallは二つの意味があります。未来形が一つとべきがもう一つである。どっちかな。)
O come, Thou Wisdom from on high,
いらっしゃい、知恵よ、あなた(=知恵)高いところから
Who orderest all things mightily;
パワーをもって、すべてのものを整えています。
To us the path of knowledge show,
我々に知識の道を見せて下さい。
And teach us in her ways to go.
her = 知恵の
知恵の道を歩む事を教えて下さい。
267:神も仏も名無しさん
11/08/07 19:36:08.10 Rr46novp
>>261
夢の重要性やシンクロニシティの話はよくわかる。
霊を見たことがあるので、霊界や霊の存在を100%認めている。
良夢や悪夢についても話してみたい。
どれを取り上げたらいいのやら、話してみたいテーマが多過ぎる。
268:Johannes
11/08/07 19:37:16.23 zH32gTQ6
>>266 続き
※この歌詞に於ける「イスラエル」とはキリストの救いに感謝するキリスト教徒の心を、
救い主(=インマヌエル=イエズス・キリスト)を待ち望んでいた頃のイスラエルの人々の心に映して表現しているのです。
つまり、そのイスラエルの人々が待ち望んだ救いが実現した感謝と喜びと信仰の確認を意味しています。
キリスト教の聖歌などで使われる「イスラエル」とはキリストが統治する理想の王国のことであり、そのキリストの救いを得た人々のことです。
現在あるイスラエルという国家と国民のことではありません。
因みに、こちらの曲もどうぞ。霊性の高い曲です。
(動画) URLリンク(www.youtube.com)
269:Johannes
11/08/07 19:49:43.75 zH32gTQ6
>>265
フロイトの説いた無意識とは抑圧された意識の押し込まれたゴミ箱のような潜在意識のことです。
フロイトにとって意識の主体とはあくまでも顕在意識のことなのです。
これに対してユングの発見した無意識とは個人的無意識と集合的無意識のことであり、
佛教の末那識・阿頼耶識と類似しています。(むしろユングは末那識・阿頼耶識からヒントを得た。)
ユングは意識の主体がむしろ無意識にあると考え自我自己同一性(アイデンティティ)の認識へと至りました。
270:神も仏も名無しさん
11/08/07 19:52:47.94 Rr46novp
>>261
仏教とキリスト教は、似ているところもあれば違うところもある。
まったく別物と割り切って学ぶのもひとつの方法だが、
違いは何かと迷いながら、探しながら学ぶのも方法ではないだろうか。
その際、仏教はこういったもの、キリスト教はこういったもの、という
おおよその「つかみ」が必要になる。これがけっこう大変だ。
浅く広く、いろいろな宗教に通じていなければならない。
271:神も仏も名無しさん
11/08/07 20:11:37.10 Rr46novp
>>269
意識、個人的無意識(マナ識)、集団的無意識(アラヤ識)ですね。
ヨハネスさんの言葉の使い方を了解しましたが、
わたしの場合は、マナ識が夢の世界、アラヤ識も自分にウエイトがあり、
集団的無意識という見方はあまりしない。その集団的な部分は、
霊界という共通体験から生じるのではないかと思う。
しかし、違いがわかったので、言葉の使い方には気をつけたい。
272:神も仏も名無しさん
11/08/07 20:30:24.85 Rr46novp
>>269
ヨハネスさんはフロイトとユングを正確に表現してくれたと思う。
わたしはフロイトしか知らないので、フロイトを語る以外にないのだが、
ゴミ箱のような無意識の捉え方、性的に理解する偏った夢判断など、
かれの曖昧さ、偏見などが逆に、そうじゃないだろうと刺激してくれた。
フロイトには、自分で考える余地があるような気がする。
なぜかわからないが、ユングにはまったく興味を抱かなかった。
この辺は好き好きなのだろう。
273:神も仏も名無しさん
11/08/07 21:03:03.71 Rr46novp
密教に話を戻せば、空海は求聞持法ですでに解脱しているのに、
なぜ呪術を中心にした密教を請来したのか。
自分の体験が何だったのかを知りたい、という思いもあったのだろう。
それだけではなく、法灯を守るためには天皇を中心とする権力者の庇護が
必要だったからではないか。権力者と妥協する必要があった。
そのため密教の流れが呪術優先へと方向を変える。
こうして解脱ではなく、験力こそが最優先の課題になった。
274:Johannes
11/08/07 21:51:42.15 zH32gTQ6
>>258 続き
「o come, o come, emmanuel」は、グレゴリオ聖歌「Rorate Caeli」を原形としているように思える。
かなりの類似性があると思える。
URLリンク(www.youtube.com)
275:神も仏も名無しさん
11/08/07 21:53:46.56 Rr46novp
賛美歌の話を含め、ヨハネスさんには感謝したい。いろいろ学んだよ。
わたしがしっかり読んでいる(^^)
感謝の気持ちを表すため、夢についての奥義を話そう。
夢を変えよう。どうやって変える?
夢の中でも優しく振舞う。そうしたら悪夢が良夢になる。
そのために、日ごろの「心がけ」が重要なのであり、
決定的なのである。
276:神も仏も名無しさん
11/08/07 22:02:15.98 Sf8Ztdx6
>>268 感謝する。つまり、キリストに従うものは、イスラエル人ということか
つーか、二重人格か君は? まず神のことを人如きが理解できるはずがない、でも、いてくださるのは、経験上、知っている
しなくても良い経験をしたからなw ただ、良くして下さる神に感謝するだけ、人なんか子羊ですらないよ、そうであるのにかえりみてくれる方に恩を感じるべき
身の程を知らないと後で困るのはお前だぞ、礼のつもりで言っておく。
277:神も仏も名無しさん
11/08/07 22:08:32.99 Rr46novp
>>276
そんなこと言うなよ。ヨハネスの誠意をつくづく感じるぞ。
278:Johannes
11/08/07 22:55:03.44 zH32gTQ6
>>276
何を興奮しているのかよく分らぬが事実を言ったまでのことだ。キリスト教(特にカトリック)ではそうだ、と云う事実なのだ。
有名なRorate Caeliは、日本語で「天よ、露を滴らせ」として知られている。待降節に歌われるものだ。
その歌詞四番がこれだ。
4. Consolamini, consolamini, popule meus :
コンソラミニ、コンソラミニ、ポプレ メウス:
慰められよ、我が民よ、慰められよ:
cito veniet salus tua
チト ヴェニエット サールス トゥア
おまえの救いはすぐに来るだろう:
quare moerore consumeris,
クァーレ メローレ コンスメリス、
何故、おまえはもだえ死のうとするのか、
quia innovavit te dolor?
クィア イノヴァーヴィット テ ドロル?
苦しみがおまえをあらたに襲うといって?
Salvabo te, noli timere,
サルヴァーボ テ、ノリ ティメレ、
我は、おまえを助ける。恐れるな、
ego enim sum Dominus Deus tuus,
エゴ エニム ドミヌス デウス トゥウス、
我は実におまえの主なる天主である、
Sanctus Israel, redemptor tuus.
サンクトゥス イスラエル、レデンプトール トゥウス。
イスラエルの聖なるもの、おまえの贖い主である。
「Sanctus Israel」となっている。
279:神も仏も名無しさん
11/08/07 23:06:22.53 Sf8Ztdx6
>>263と268が同一人物だとは思えなかっただけ、普通、信仰を持っていれば263の発言は否定するし
真言とか、滝行とか、断食とかやったけど一番強いのは、心から神を信じ恐れないことだよ。
結局、神が一番強いし、頼りになる。なぜ、キリストやブッダが魔法や呪術を禁じたのか今はよくわかる
信仰だけで充分だよ。
280:Johannes
11/08/07 23:34:35.13 zH32gTQ6
>>279
ああ。なるほど。俺はキリスト教会の教義と対立する独自論を展開しているから誤解されてもしょうがない。
Johannes論では、創世記の唯一創造神を否定する。故にクリスチャンとは対立することになる。
(過去レスから引用)
キリスト教の核心部分は「ヨハネ福音書14章から17章」に集約されている。
そのことに気付いた者は「ヨハネ第一の手紙」の価値を知るであろう。
ヨハネ福音書14章にある次のキリストの言葉は最終回答でありキリスト復活の真相を示唆する。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。
あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
そこを読み解けないのであれば聖書も教会も無意味なものでしかない。また、このキリストの最終回答は創世記の真相である。
しかしキリスト教会も信者も読み解いているとは思えない。それがキリスト教の限界である。
キリスト曰く。「それ(真理の御霊)はあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」
「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」
このキリストの神観(或いは神の定義)は、それ以前(旧約聖書・ユダヤ人)の神観と決定的に袂を分かって異なっている。
旧約の唯一神は人間を創った存在なのであって、神と人間は最初から分離した異なった存在である。
しかしキリストの説いた神と人間は、明らかに真理の御霊に包括された連続性と一体性を有しているのである。
残念ながら此の事に気付くクリスチャンは殆どいない。
281:Johannes
11/08/07 23:36:21.17 zH32gTQ6
ヨハネ福音書14章20節
「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」
このキリストの言葉は実に大切である。キリストを受け入れる者は父と子の神と一体になる。つまり神として一体なると教えているのである。
これは自我の消滅を意味している。
自我は消滅しても全ての消滅を意味しない。自我は透明となって神の意識に吸収されて一体となり、神の意識は全ての意識を包括する。
それは現在の自分が幼い頃の自分や小学生中学生の頃の自分を包括している様子に類似しているかも知れない。(過去の自分に自我はないことに気付け)
神である私の内に私は存在して生きるのであって、自我の消滅によってこそ真実の命への道が開かれる。だから死んでも生きるのである。
父と子と聖霊なる神は真理の御霊に於いて一体なのであるが、それを超えて一体なのだから、真理の御霊こそが無始にして唯一であり且つ全てなのである。
(なかなかイメージを上手に言葉に出来ないのだが・・)
だからキリストを受け入れる者は自我を透明にしてキリストの愛に一致するための祈りと行いと助けが必要となる。
282:Johannes
11/08/07 23:38:15.67 zH32gTQ6
(過去レスから引用)
聖母マリアがキリストの母であることは福音書を引用するまでもなく明らかであろう。
母とは女性である。イエズスは女性原理により誕生しマリアの母性によって育てられたのである。
つまり誕生は女性原理の為せる業だからである。
ルカ福音書1章35節
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」
ルカ福音書1章38節
「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。」・・(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。
そして母であるが故に我が子の苦難苦痛と死を自らが身代りになりたいとまで思うのが母の愛である。(聖母マリアは既に神を受け入れて死を打ち破っている)
そのキリストの母・聖母マリアが既に神と一体であることは自明の理である。
キリストを受け入れる者にとって聖母マリアの正体は真理の御霊であり女神である。
真理の御霊は聖霊ともなるし聖母マリアともなる。
ロザリオの祈りが聖母マリアの心と一体となり自我を透明にする為の大切な祈りであると分るだろうか。
また、祈る者自身の内に真理の御霊である聖霊の助けが働くことが分るだろうか。
ロザリオの祈りが産み育てると云う女性原理そのものであることが分るだろうか。
今の段階で俺の言葉では、取り合えずこのくらいの下手な説明しか出来ない。
多々批判は承知の上である。俺は決してマリア教徒ではないが敢えて聖母マリアの説明を追加した。
Johannes論は更に展開する独自論(全ての教会を敵に回す異端論) であるが切りがないので此処で終える。
283:Johannes
11/08/07 23:59:52.99 zH32gTQ6
>>282について若干補足説明をする
>>「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。」・・(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。
当時の律法に従えば、父親の分らない子供を妊娠することは死刑(石打)に相当する姦通罪であった。
聖母はそれを承知の上で御使いの言葉を受け入れた。それが、「(注)これは神を受け入れて死を打ち破った一言である。」の意味である。
284:神も仏も名無しさん
11/08/08 18:26:58.30 z9Prtlyz
>>261
>キリスト教ではまず聖書を読んで学ぶことを先行させつつ祈るのが一般的である。
>しかし佛教では全く逆である。まずは実践である。
>例えば般若心経の意味を知る必要はない。まして御真言の意味を知る必要はない。
>何かのお経の意味が知りたければ、それは後からでも十分である。
285:神も仏も名無しさん
11/08/08 19:03:03.95 z9Prtlyz
聖書を学ぶ場合と、仏教を学ぶ場合とは、それを学ぶ方法が異なる。
それはなぜか。その目的が異なるからだろう。
聖書は罪からの救いを目的にしている。人間は生来の罪人なのである。
その罪は心の底から悔い改めるとき、神の訪れ・聖霊によって救われる。
聖霊の訪れは、神の選びであり、人間の自由にはならない。
そのため、神が何を望むのか、それを聖書から学ぶことが課題になる。
神は絶対者であり、祈りと聖書が信仰生活の中心になる。
286:神も仏も名無しさん
11/08/08 20:08:40.63 z9Prtlyz
これに対して仏教は、輪廻転生からの解脱を目的にする。
人間の運命は前世の業によって決まる。これはどうもがいても動かせない。
前世の話だからである。仏教は業(カルマ)の法則を前提にする。
287:神も仏も名無しさん
11/08/08 20:11:04.71 z9Prtlyz
ではどうしたら輪廻転生から解脱できるのか。仏教は神を否定するから、
自力によって輪廻転生から解脱しなければならない。そういった制約のなか、
仏教は輪廻転生を「空」と解釈することで(解脱)を可能にした。
しかし「空」を言葉で理解させることは不可能に近い。
そこで修行の中で「空」を体験させる、というのが仏教の立場なのだろう。
修行が重視されるが、あくまでも「空」を体験させるためである。
288:神も仏も名無しさん
11/08/08 20:40:47.08 z9Prtlyz
聖書と仏教を比較して評価してみよう。
聖書の値打ちは「聖霊」を伝えているところにある。
仏教の値打ちは坐禅の技法を伝えているところにある。
残念だが、空を体験することは不可能である。
重要なのは、坐禅修行における「梵我一如」と「アートマン」の体験である。
結論としては、聖書も坐禅修行も欠かせないのであり、
どちらも残されていてよかったと思う。ふたつは位相が異なっている。
順序は、聖霊 → 梵我一如 → アートマン(霊魂)
289:神も仏も名無しさん
11/08/08 21:18:33.65 z9Prtlyz
ついでに坐禅修行について書いておこうか。
仏教の修行は坐禅だけでなく、いろいろな方法があるのだろう。
しかし、聖霊体験があるなら、数息観だけで十分である。
数息観は、座って、息を数えるだけの単純な坐禅である。
息を吸って吐いてイチ、ニー、サン・・・と数え、ジュウまで行ったら、
またイチ、ニーと繰り返えす。心は息を数えることに集中する。
できたら、だいたい1時間ぐらい座ろう。
290:神も仏も名無しさん
11/08/08 21:26:58.53 z9Prtlyz
集中できなければ丹田に意識を置き、眠くなったら額の中央に意識を置く。
ただし眠くなったら鼻に意識を置くと教える本もある。
わたしは天台小止観の流布本(簡略本)で学んだので額の中央になる。
残念なことに、この流布本を捨ててしまった。必要ならまた買えばいいや、
と思ったのが失敗だった。探しても見つからない。
ともかく辛抱すれば、坐禅するうちに梵我一如のレベルには到達する。
これが仏教で言う「空」だと言えなくもない。
291:神も仏も名無しさん
11/08/08 21:55:01.37 z9Prtlyz
問題はこの先、魔境にある。これは突破できない。
仏教徒もヒンズー教徒も、ここでことごとく粉砕されるだろう。
そして魔境の恐さから坐禅ができなくなる。
神はだまされるようなお方ではない。そのために魔境が備えられている。
神はそこで、心の裏の裏までをお見通しになる。
ではどうしたら魔境を突破できるのか。そのために聖霊体験が欠かせない。
聖霊体験をすることが、魔境を突破する力量とイコールなのである。
ものごとには順序がある。聖霊体験が最初である。
292:Johannes
11/08/08 22:42:35.07 mVsCO0qQ
>>291
君は真面目なあまりに考え過ぎているのではなかろうか。
そんなに大袈裟なものではないし難しい事でもない。お金も掛からない。
信じようとする必要もありません。ただ継続することが大切なだけだよ。
聖霊体験はそもそも何も関係ないと思う。
大切なのは「気付くこと(=悟ること)」だと思っています。
継続していれば「気付く」時が来ます。
293:神も仏も名無しさん
11/08/09 18:03:10.26 g3ncfDGT
>>292
確かに気づくことがポイントなのだが、それが聖霊体験に直結する場合と、
そうでない場合とがある。「天よ、露を滴らせ」の露が聖霊なのです。
ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
294:神も仏も名無しさん
11/08/09 18:24:08.90 g3ncfDGT
魔境の恐さは昔から知られている。
釈迦は半眼で瞑想し、仏教の坐禅でも基本的に半眼で行う。
仏教は魔境に入ること自体を避けている。
結果として、仏教では「梵我一如」が最高の体験になる。
仏教の修行方針を理解できないではない。仏教徒には聖霊体験がないから、
魔境に入ること自体が危険なのである。神の守護がないから、
ノイローゼになったり、場合によっては命を落とすことになる。
仏に逢うては仏を殺せ、祖に逢うては祖を殺せ、という臨在録の殺仏殺祖は、
魔境を恐れる話として理解したらいいだろう。
295:神も仏も名無しさん
11/08/09 18:49:06.54 g3ncfDGT
わたしも半眼で行うことをすすめる。
聖霊体験がなければ、魔境を突破することは不可能である。
準備がないのに、魔境を体験することは百害あって一利無しである。
★ ★ ★ 坐禅は半眼を開けて行う
空海は聖霊体験がないのに明星を見たという。しかしこれは例外中の例外。
これとよく似た話で、釈迦は満月を見て成道したとも言われている。
密教の金剛頂経に出てくるらしいが、金剛頂経は7世紀中頃の制作であり、
満月うんぬんの話はだれかの作り話だろうと思う。
296:神も仏も名無しさん
11/08/09 20:38:35.79 g3ncfDGT
今までの話から、坐禅や瞑想をするにも聖霊体験が関係していることが
わかってもらえたろうか。聖霊体験がなければよくて梵我一如止まりである。
その先の明けの明星、霊魂体験には99.99・・・%進めない。
なぜそんなに難しいのかと言えば、心を脱ぎ捨て、身体を脱ぎ捨てないと
霊魂にならないからである。生きながらに死ぬことと等しい。
こんなことは不可能に近いし、仮にできたとしても危険過ぎるのである。
危険だと知らないから、危険なことをやって偶然にも体験してしまった、
というのが真実ではないだろうか。空海もそうだったろう。
297:Johannes
11/08/09 20:50:43.36 w/7idfq/
>>293
では更にはっきり言う。
佛教に於いては聖霊体験など一切考慮しない。
そもそも「聖霊体験」とは何か。
使徒行伝1章2-4をイメージしているのだろうか。
佛教では斯くの如き現象を考慮することはない。
>>ヨハネスは聖霊(神の訪れ)と霊魂(永遠の命)を区別していないと思う。
・・区別するのが誤りだからだ。
佛教では其の区別がそもそもが有ってはならない誤りなのだ。
それは佛教ではない。
298:神も仏も名無しさん
11/08/09 20:52:39.98 g3ncfDGT
そうすると問題は、聖霊体験ができるかどうかであり、
坐禅や瞑想の技術的問題ではないことになる。
技術的には、もっともシンプルな数息観で十分すぎるほど十分である。
念仏や題目や、真言や陀羅尼を唱える必要もない。むしろマイナスである。
当然、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガなどは邪道でしかない。
問題は聖霊体験ができるかどうかにある。
299:神も仏も名無しさん
11/08/09 21:08:58.57 g3ncfDGT
>>297
仏教が聖霊体験を考慮しないので、それでは足りないと指摘している。
また使徒言行録の聖霊は、ルカの作り話か、かりに何かあったとしても、
集団ヒステリーのようなものだろうと思う。
聖霊は、頭の中に、斜め上方から落ちてくる雫のようなもの。
霊魂は、意識も感覚もある透明な球。
300:神も仏も名無しさん
11/08/09 21:22:33.43 g3ncfDGT
>>297
仏教やキリスト教の教え以前に、何が真実なのかが優先すると思う。
そう説いているから信じるのではなく、自分の目で確かめ、
自分の頭で考えるようにしたい。めざしの頭も信心から、と言うように、
信仰には人間を盲目にしてしまう力がある。
301:神も仏も名無しさん
11/08/09 21:53:52.33 g3ncfDGT
聖霊とか霊魂とかを、その精神的な意味合いから眺めれば、
ヨハネ福音書15章13節かもしれない。
(友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。)
聖霊を体験するのに必要なのは、この愛であり、優しさである。
魔境を乗り切るのも同じ。悪夢を良夢にするのも同じ。
空を説く仏教には、これが欠けていないだろうか。
302:神も仏も名無しさん
11/08/09 22:11:20.85 g3ncfDGT
夢は毎日見る。これを利用しない手はない。
基本的には、その日思ったこと、心を動かしたことが夜の夢になる。
夢を点検すれば自分がどの程度の人間なのかがわかる。
この夢を変える。優しくなれば夢が変わる。
なぜ薬物がダメなのか。サイケな幻覚を見ても無意味だからである。
魔境では、その人の愛や優しさが問われている。
その点から言えば、殺仏殺祖を言う臨在録はカン違いしている。
303:Johannes
11/08/10 01:35:58.48 J5ER/bs+
霊魂が存在することで自我が継続し続けると考えているうちはまだ佛教の外にいる。
いくら考えても無駄であり迷信である。それきキリスト教会レベル。
304:神も仏も名無しさん
11/08/10 10:59:49.64 6y0lAbXl
↑
サルの寝言
仏教はお札を数えてナンマーダーだべ
305:神も仏も名無しさん
11/08/10 11:03:02.71 6y0lAbXl
仏教もグノーシスも思考の主体は、きっと脳みそなんだろな^^
その脳みそが腐った死後に悟りがあると言うから、あたまおかしいんじゃん^^
306:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
11/08/10 16:53:16.91 S0tO4VVY
キリスト教って、親兄弟が死んでも自分達だけは復活するって信じてるんだよな?(笑)
(^。^)良い性格してますね♪(笑)
307:神も仏も名無しさん
11/08/10 18:08:13.32 R3/9aCaL
>>303
ヨハネスの話はわからないでもない。
仏教を内側から見るか、外側から見るかの違いではないだろうか。
よく話せば、結局は同じことを言っている可能性が高い。
何を言いたいのか、何となくわかるような気がする。
308:神も仏も名無しさん
11/08/10 18:27:29.73 R3/9aCaL
ただ大乗の空、これはいただけない。
日本の僧侶は、空の思想を証明したいのか、墓場の中で暮らしている。
よくやるよと気の毒に思うが、実際には金勘定ばかり。
僧侶にとっては、生活の糧、墓場こそが有り難い田畑なのだろう。
仏教の発祥地、インドには墓がない。火葬後、ガンジス川に流してしまう。
日本の仏教もインドに学び、散骨にすればいいのに。
309:神も仏も名無しさん
11/08/10 18:51:40.27 R3/9aCaL
仏教は空を説いているが、殺人者にとっては有り難い教えである。
しかし、自分が殺される側になれば、必死に逃げて抵抗するのではないか。
そんな教えが空である。世間は空論といってバカにしている。
こんな邪教が生き残っているから、日本の霊性がいつまでも低迷している。
日本を霊的によみがえらせるには、たとえば宗教法人優遇税制を廃止し、
墓場にしがみついている大乗仏教の糧食を絶つべきだろう。
宗教界にも競争原理が必要である(^^)
310:承狂 ◆TptLNQXPVWuJ
11/08/10 18:57:13.58 S0tO4VVY
キリスト教って、
死んだら魂はどうなってる設定なの?(笑)
ハッキリ決まってないよね?
会議で決まってたっけ?(笑)
311:神も仏も名無しさん
11/08/10 19:23:34.05 R3/9aCaL
仏教、キリスト教などなど、そういった枠にはまった考えは、
もはや終りを迎えつつあるのではないだろうか。
ネット社会は、自分の目で確かめ、自分の頭で考える時代である。
仏教もキリスト教もかってのオーラが失われ、無様な残骸になっている。
特に仏教はひどい。僧侶自身が喜怒哀楽に翻弄されて生きているのに、
空などと寝言を語り、まるでペテン師のようではないか。
仏教より、アートマンを説くヒンズー教の方がよっぽどましである。
312:神も仏も名無しさん
11/08/10 19:42:25.97 R3/9aCaL
坐禅の体験には、梵我一如とアートマン(霊魂)体験しか存在しない。
空の体験など絶対にありえない。だから不立文字になる。
空が体験できないものであれば、それは無、虚無であろう。
無、虚無を語るには、Aではない、Bではない、という否定表現でしか
表現できない。これが竜樹の説く空ではないのか。
それはまったく何もないゼロである。
313:神も仏も名無しさん
11/08/11 23:41:11.48 9hcmDgkw
坐禅をするなら、念仏、題目、念唱などはやめた方がいい。
これはすでに書いたことだが、重要なので再度繰り返しておきたい。
心を自然な状態に戻したいなら、坐禅には色をつけない。
息を数えるだけの数息観がベストである。
314:神も仏も名無しさん
11/08/11 23:55:05.88 9hcmDgkw
線香もローソクもやめた方がいい。呼吸を細くするために邪魔でしかない。
掛け軸などの小道具もいらない。何もいらない。ただ座ればいい。
わたしもできなかったが、結跏趺坐ができなければ、
尻の下に枕を置くといい。パイプ枕なら高さを調節できるので重宝する。
住んでいる場所にもよるが、坐禅をするなら春か秋だろうか。
夏は暑くてダメだし、冬は寒くてダメ。
冷房や暖房? どうも気が散って坐禅には向かないようである。
315:神も仏も名無しさん
11/08/12 00:21:13.90 A/jV/xPU
坐禅をする時は半眼でやる。
半眼でやるのは、坐禅中に眠らないためと、魔境に入らないためである。
これが坐禅の基本である。釈迦像を見ても半眼でやっている。
坐禅は半眼でやる。→ ここから重要なことがわかる。
坐禅中の体験は梵我一如か霊魂(アートマン)体験だから、
半眼を基本にする以上、その禅は梵我一如を目指していることになる。
半眼では霊魂(アートマン)体験ができない。
それゆえ大乗は、事前に霊魂(アートマン)体験を排除している。
釈迦も半眼なら梵我一如を体験しただけである。
316:神も仏も名無しさん
11/08/12 00:48:50.24 A/jV/xPU
坐禅にしても瞑想にしても、聖霊体験をしてから始めるべきだろうと思う。
しかし日本では、いきなり坐禅を始めるのが当たり前になっている。
そこでわたしがやっていたことを参考までに書いてみた。
聖霊体験が至難の技だから、まあ好きなようにやってください、
としか言いようがない。興味があるなら聖書のヨブ記を読んでみるがいい。
それを読めば聖霊体験がどれほどのものかがわかるだろう。
317:神も仏も名無しさん
11/08/12 01:14:04.11 A/jV/xPU
いままでの話から、わたしがどんな坐禅をしていたかがわかるだろう。
絶対にマネしてほしくないのだが、周囲を真っ暗にし、
さらにその上、目を閉じてやっていた。
ウソかホントかわからないが、虚空蔵求聞持法に挑んだ僧侶の死亡率は
50%にもなるという。やるなら、それぐらいの覚悟がいる。
わたしには関係ない。自分の責任でやってほしい。
318:神も仏も名無しさん
11/08/12 10:50:01.66 I3SGlUI1
空海、釈迦、十牛図などに、満月や明けの明星が出てくるのは、
かれらがまだ暗いうちに起き、坐禅に打ち込んだことを意味している。
静かだし、涼しいし、周囲はまだ暗闇である。腹の空き具合もいい。
夜が明ける前、これが坐禅には持って来いなのである。
319:神も仏も名無しさん
11/08/12 11:29:50.83 I3SGlUI1
日本人では、空海と夢窓が霊魂(アートマン)体験をしたろうと思う。
記録がないだけで、まだ他にもいるのかもしれない。
なぜ周囲に話さないのか、なぜ詳しい記録を残さないのか。
その理由を整理するのは骨なので、要するに言えば、
だれかに口止めされたかのように、何かを話したいとは思わないのだろう。
情報の乏しい昔は、なおさら沈黙したろうと思う。
320:神も仏も名無しさん
11/08/12 11:55:56.81 I3SGlUI1
それほど霊魂体験(聖霊体験も同じ)は語りにくいのだが、
空海も夢窓も、わかる人にはわかるように、少しだけ自分の体験を語り、
後続への道しるべを残している。
空海・・・『三教指帰』序「谷響きを惜しまず、明星来影す」
夢窓・・・『夢中問答集』「いかなるか典外の法」「八角磨鏡、空裏を走る」
321:神も仏も名無しさん
11/08/12 21:33:37.20 Ijd3GRvX
いまはネットで坐禅作法を知ることができる。
それなりの手引書がほしいなら、昔から『天台小止観』がある。
ただこれは正規と簡略と二種類ある。簡略本(流布本)が読みやすい。
簡略本がなければ、正規本を読み飛ばすのもいいだろう。
322:神も仏も名無しさん
11/08/12 22:08:18.44 Ijd3GRvX
坐禅の源流はインドのヨーガにある。
その中でも、古典ヨーガ学派の、八支ヨーガである。
八支ヨーガについて興味があるなら、ネットなどで調べてほしい。
これはラージャヨーガ(王のヨーガという意味)とも言う。
天台小止観より、むしろわかりやすいかもしれない。
いまやネット社会の恩恵で、坐禅作法も本場インドに学べる時代である。
仏教は歴史的使命を終えたと思う。仏教にはウソが多過ぎる。
これからの人はインドに直接学んだ方がいい。
323:神も仏も名無しさん
11/08/13 18:46:11.71 cnC/ZqLC
★ ★ ★
坐禅から話題を変えよう。救いや悟りが必要になるような仕組み、
そういった世界の仕組みをテーマにしてみたいと思う。
324:神も仏も名無しさん
11/08/13 19:24:27.47 cnC/ZqLC
このテーマを扱うには、神、人間、両者の関係をある程度定義し、
その中で救いや悟りを考えなくてはならない。
もちろん定義自体を検討する必要がある。
しかし、このふたつを分けて議論した方が混乱しないだろう。
分けた上で議論するなら、それはそれできわめて有意義ではないかと思う。
また、人間には男も女もいるのだから、それも考慮すべきである。
325:神も仏も名無しさん
11/08/13 19:32:31.34 cnC/ZqLC
大昔から現在に至るまで、宗教の問題は男性中心に考えられ、
女性のことが蔑ろにされていたのではないか、という疑問を感じている。
神々の世界においても、男神が中心、女神は第二の性に甘んじている。
それはいったいなぜなのか。男女の協力がなければ世界が成立しないのに、
不公平ではないのかと、男であるわたしでさえ思うのだ。
そろそろこんな状況に終止符を打ちたいものである。
326:神も仏も名無しさん
11/08/13 20:23:51.20 cnC/ZqLC
まず神が存在するとしよう。この神は(いのち)である。
神は、善そのものであり、正義そのものであり、永遠の存在でもある。
神は普遍的であり、同時に、生き物の霊魂として個別的でもある。
生き物は、神(いのち)と物質からなる存在である。
それゆえこの世界は、神と生き物と物質とに区別できることになる。
327:神も仏も名無しさん
11/08/13 20:50:00.49 cnC/ZqLC
別スレでも使ったが、この関係を「四句分別」で整理しよう。
ここで神と物質は、ビッグバンによって同時に誕生したと仮定する。
二元論の採用・・・神と物質は、反発しながら、凹凸のような関係にある。
① ビッグバン以前の虚無を意味する → 大き目の四角形を描く。
② そこに、神=Aの円、物質=Bの円を、少し重ねて描く。
③ ふたつの円が重なった部分、AかつB → 人間を含めた生き物である。
④ AでもないBでもない部分 → 虚無
328:神も仏も名無しさん
11/08/13 21:18:46.49 cnC/ZqLC
神は、Aの円(Bとの重なりを含む)である。
物質(この世界)は、Bの円(Aとの重なりを含む)である。
人間は、AかつB、神(いのち)であり、同時に物質である。
しかし神は物質ではないから、AかつBという状態は矛盾している。
この矛盾から、人間とは何か、という永遠のテーマが発生する。
329:神も仏も名無しさん
11/08/13 22:47:16.66 cnC/ZqLC
人間(生き物)は、AかつBの、矛盾した状態を生きている。
神(いのち)と肉体(物質)を同時に生きている。
この仮説が正しければ、救いと悟りには二つの方法が考えられる。
神(いのち)を知るには、①肉体(物質)を意志力で否定するか、
②実際に肉体(物質)から抜け出るか、である。
① 具体的な状況下、これができれば、目を開けたまま聖霊体験をする。
② これは坐禅中、魔境を突破することである。→ 霊魂体験である。
330:神も仏も名無しさん
11/08/13 23:03:55.14 cnC/ZqLC
この方法論は、神(いのち)を知ることにおいて、男も女も同じである。
男でも非常に困難なのに、女はどうやって可能になるのか。
ヨブ記を読めば、聖霊体験の困難さがわかるだろう。
目を開けたまま、自分の意志で、自分の肉体(物質)を切り刻むのは、
発狂するような苦しみである。ほんの少しでも譲れない。
空海の死ぬほどの苦労を知れば、霊魂体験の困難さもわかるだろう。
霊魂が抜け出ると、ほんとうに死ぬかもしれない。
331:神も仏も名無しさん
11/08/14 07:16:03.90 KSDmgIrs
人間は、神(いのち)と肉体(物質)からなる矛盾した存在である。
これだけでは、まだそこに善も悪も登場しない。
しかし、神を善なるものとした時、その相手方である悪も登場してくる。
悪なるものの正体は物質である。それ以外に何もないからである。
332:神も仏も名無しさん
11/08/14 07:31:47.18 KSDmgIrs
人間は物質が悪であるとは思っていない。なぜなら物質によって生き、
物質の有り難さを百も承知しているからである。
そのため、神を善なるものと考えるとき、その相手方は物質ではなく、
悪魔、悪霊、死霊、呪い、罪深さやケガレなど置き換えられる。
その正体(物質)を無意識の世界に隠してしまう。
神=命=善 であれば、肉体(物質)=死=悪 である。
しかし、肉体(物質)に愛着するから、この等式がまるで読めなくなる。
333:神も仏も名無しさん
11/08/14 07:50:33.21 KSDmgIrs
神と物質が無関係に存在するだけなら、この世は死の世界である。
神と物質が関係することによって、生き物が誕生する。
この地上に人間や生き物がいるのは、苦しみ、罪にまみれるためではなく、
人間や生き物が神の目的になっているからではないのか。神の目的とし、
物質の目的としないのは、物質に意識があるとは考えられないからである。
ただし、意識の有無に関係なく、神と物質は対等な存在である。
334:神も仏も名無しさん
11/08/14 08:12:23.43 KSDmgIrs
神の目的は、この地上に人間や生き物を誕生させることにある?
そう考えないと、人間や生き物の存在を否定しなければならなくなる。
しかしこの考え方には異論もあると思う。
アミダ教やキリスト教やイスラム教は、ほんとうの人生は死後にあり、
極楽や天国や楽園での生活にあるのだと教えている。
グノーシスは至高神を設定し、この世を悪神の失敗作として切り捨てる。
ヒンズー教は輪廻転生を説き、この世からの解脱が究極の課題である。
仏教はヒンズー教の流れに位置し、やはり解脱が究極の課題である。
335:神も仏も名無しさん
11/08/14 08:23:02.88 KSDmgIrs
いずれにしろ、この世を否定する考え方には、基本的な欠陥があると思う。
いやなら死ねばいい。しかし簡単に死ねないのは、人間や生き物が元来、
この世で生きていくように設計されているからではないのか。
わりに現実肯定的な教えは、神道、ユダヤ教、儒教、道教などだろうか。
スキのない精緻さ、練り上げた宗教哲学は欠けるが、これらを土台に、
新しい宗教を構築していく必要があるのではないかと思う。
336:神も仏も名無しさん
11/08/14 08:49:29.28 KSDmgIrs
男と女は、この世(肉体・物質)に執着する度合いが根本的に違う。
一般的に言えば、弱い者、幼い者の方が自己愛が強く、この世に執着する。
なぜなら、そうでなければ、この世で育たないからである。
女性・子供・障害者・孤児などは、自己愛が強く、物質への執着心も強い。
それは当然なのであって、そうでなければ生きていけないからである。
こういった心の動きは、神が用意したものだろうと思う。
337:神も仏も名無しさん
11/08/14 09:05:50.05 KSDmgIrs
自己愛や執着心は、褒めるべきでもないが、けなすべきでもない。
それらは罪でもなければ、軽蔑すべきものでもない。
かれらは精一杯生きているだけである、などと思うべきなのだろう。
ただ、それが度を越せば、周囲は迷惑だなあ。
だんだん人が遠ざかって行くだろう。→ これが自然の流れである。
そうされたらかれらも軌道修正する。→ これが自然の流れである。
反応は鈍いが、世の中はうまく出来ているのかもしれない。
心が成長するのは、時間がかかるものなのだろう。
338:神も仏も名無しさん
11/08/14 10:26:27.88 KSDmgIrs
弱い者、幼い者が自己愛が強く、執着心が強いのは当然である。
しかし、成長した時、自分が強くなった時、相手が自分より弱い時は、
自己愛から離れ、執着心からも離れるべきである。
相手への思いやりを学ばなくてはならない。これは男も女も同じである。
世間ズレした大の男が自分中心に行動するなら、
周囲にとっては危険きわまりがない。そういった男は周囲の災いである。
そばにいれば必ず損をし、命を取られる覚悟がいる。
まあ、年取ったおばさんにも、そんな雰囲気の人を見かけることがある。
339:神も仏も名無しさん
11/08/14 11:03:30.49 KSDmgIrs
男は家族を守り、所属する共同体のために戦わなければならない。
だから、死を直感し、生きる意味を探し始める。
男の重大な関心は、神探しであり、神がいるのかいないのかにつきる。
女は、子供を産み、育てなければならない。
そのためには、だれかの助けが欠かせない。自分の弱さを感じるがゆえに、
だれかに愛されたいという思いと、生活を成り立たせる物質への執着心に
心を奪われてしまう。女の心はより物質へと向かう。
神と物質は対等であり、人間が地上で生き続けるためには、
物質に向かう心も必要である。それも神の配慮だと言うことである。
340:神も仏も名無しさん
11/08/14 11:37:44.99 KSDmgIrs
男は神探しをし、女は大地へと向かう。これは一般論に過ぎないが、
人類史上、ナントカ神と名がつく存在を考え出したのは、
すべて男だったのではないかと思う。
だからたとえば、ヒンズー教におけるシバ神の妻、パールヴァティーも、
ドゥルガーも、カーリーも、インドの男性が考え出したものであり、
男性の女性観がイメージされているのではないだろうか。
キリスト教のマリア、旧約聖書のエバ、神道のイザナミなどにも、
同じことが言えるのではないだろうか。地母神もそうだろう。
341:神も仏も名無しさん
11/08/14 11:56:26.99 KSDmgIrs
女性が地母神として崇拝されたのは、土地が広く、自然が豊かであり、
子供がいくらでもほしい時代だった、からではないだろうか。
その後、人口が増え、土地を争うようになれば、働き手としても、
兵士としても男が必要であり、女の地位が低下していく。
地母神は見捨てられ、男神が信仰の中心になる。
このような経過だとすれば、現代は人口が過剰な時代であり、
地母神のような神が復権する可能性はないだろう。
女性信者を呼び集めるため、男神の妻という設定ならありえるだろうが。
342:Johannes
11/08/14 14:07:04.90 U4TijgGb
>>327の最初の前提に誤りがあれば、以後演繹された全ては誤りとなる。
そして最初の前提が正しいとは思えない。
343:神も仏も名無しさん
11/08/14 18:24:01.54 Pk98gFuU
>>342
もちろん絶対に正しいとは思わない。暫定的な仮説にすぎない。
女性の救い、女神や地母神など、ヨハネスに持論があるなら聞いてみたい。
こういったテーマは、宗教板になかったのではないだろうか。
344:神も仏も名無しさん
11/08/14 20:25:16.40 Pk98gFuU
すべての男性は、女性である母親から生まれ、育てられる。
もちろん例外はあるだろうが、男性は母親に対して恩恵を感じている。
あらゆる女性を将来の母親と思えば、女性に対する尊敬の念も湧き、
思いやりや優しさを示せるのではないだろうか。母親扱いせよ、ではなく、
母親に対するような思いやりや優しさを示せ、と言う話である。
そういう思いが常識になれば、女性だけでなく男性も大事にされるだろう。
豊穣を願う地母神信仰や、想像の産物である男神に付属する妻よりも、
母親イメージの方が女性の地位向上にベターではないだろうか。
345:神も仏も名無しさん
11/08/14 22:46:45.31 Pk98gFuU
もう少し掘り下げるため、創世記3章「蛇の誘惑」を取り上げよう。
ここにある話は、パウロが原罪として指摘する、人類史上の大事件である。
もちろんキリスト教上の大事件だが、これがイエスの十字架による贖罪に
直結するのである。まさにキリスト教成立の土台と言っていい。
物質の魅力に負け、神の命令に背いてしまう。これが原罪である。
神の命令よりも、自分の判断が優先し、自分の好きなように行動してしまう。
自己愛とか、自分中心とか、そういったことが原罪の内容である。
346:神も仏も名無しさん
11/08/14 23:01:45.95 Pk98gFuU
しかし、四句分別で読めば、まったく違う話になる。
人間にしろ生き物にしろ、この地上に根付くのは簡単ではない。
簡単ではないから、地上に根付くように本能が備えられているのである。
自己愛とか、自分中心とかも、神によって備えられた本能である。
だから、そういった傾向は罪でもないし、仏教で言う無明でもない。
この地上で生きていく武器であり、神が備えたものである。
神が備えたのだから、イエスの贖罪や十字架はいらないことになる。
347:神も仏も名無しさん
11/08/14 23:41:47.96 Pk98gFuU
とはいえ、生涯、自己愛と自分中心でいいかと言えば、そうではない。
そういった傾向から離れ、卒業しなければならない。
それが成人になる、大人になるという意味なのだろうと思う。
しかし実際には、なかなか卒業できない。
物質の円を生きているうちはダメ、神の円を知ることによって卒業できる。
言い換えれば、神を知るかどうかが分かれ道になる。
348:神も仏も名無しさん
11/08/15 17:57:01.67 sERY6JLW
神が人間に、自己愛や自分中心を備えたのである。
原罪など存在しない。あるいは仏教の無明など存在しない。
人間は常に、精一杯生きているだけだ。
349:神も仏も名無しさん
11/08/15 18:23:02.08 sERY6JLW
しかし成長するに従い、自己愛や自分中心から卒業しなければならない。
精一杯生きるだけでは足りない。上手に生きることも必要である。
精一杯描いたのだから、どの絵も値打ちがあり、どの絵にも上下などない、
という評価の仕方もあるだろう。その一方で、絵には上手下手がある。
同じ描くなら、上手に描きたいものである。
自己愛や自分中心からスタートしても、いずれはそこから離れ、卒業する。
これが上手に生きることだろうと思う。
350:神も仏も名無しさん
11/08/15 19:07:42.81 sERY6JLW
自己愛や自分中心から、いずれは卒業しなければならない。
しかし卒業にこだわれば、それらは原罪だというパウロの主張につながる。
あるいは仏教の無明につながる。
だが、原罪や無明という発想には、神の偉大さへの謙虚さが欠けている。
自己愛も自分中心もなければ、生き物はすべて地上から消えてしまうだろう。
生きようとする気力がないから、みんな抜け毛のように死に絶える。
351:神も仏も名無しさん
11/08/15 19:19:17.85 sERY6JLW
パウロは旧約の創造神を否定しているような印象を受ける。
イエスを神の如く祭り上げるが、そのくせ生前のイエスには興味を示さない。
新興宗教を立ち上げようという、狂ったような情熱を感じるのだが、
旧約の創造神への信仰がほんとうにあったのかどうか疑問。
かれの信仰の深さを検証すべきかもしれない。
352:神も仏も名無しさん
11/08/15 21:37:20.52 sERY6JLW
もうひとつ注意すべきなのは、四句分別でわかるように、
人間は、AかつBという矛盾、神(いのち)と物質を同時に生きている。
それなのに、聖霊体験や霊魂体験ができる特殊な生物でもある。
こういった体験は、自己愛や自分中心から離れるために効果がある。
しかし体験した後は、再び矛盾した存在を生きなければならない。
それでは何も変わらないではないか、と言えば、そうではない。
愛のレベル、あるいは思いのレベルにおいて、質的な変化が生じている。
これが聖霊体験、霊魂体験の決定的な重要性である。
353:神も仏も名無しさん
11/08/17 16:55:11.35 nLURYv3z
★ ★ ★
キリスト教の原罪論、仏教の無明論(十二因縁)は間違っている。
人間の精神は、青虫→さなぎ→チョウという、変態にも似た成長をする。
あらゆる信仰はこの成長論を新しい土台にすべきである。
354:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:11:29.25 YMJwBaBS
>>350
イエスの教えには「隣人を自分のように愛しなさい」とある。
パウロも「キリストがしたように、夫は自分の体のように妻を愛しなさい」と教えた。
自分を愛せない人は他人を愛することなどできない。よって卒業しなくてよい。
>>351
ローマ書を読めば?
創造神を肯定し、イエスの役割の重要性を説いていることが分かるだろ?
信仰は深いよ。我らに比べれば
355:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:12:09.52 nLURYv3z
青虫の時期は成長のために欠かせない。
しかし問題なのは、いつまでも青虫の状態を続けることにある。
同じことは、自分に閉じこもる、さなぎ状態にも言える。
時期が来たら、自己愛や自分中心に生きることをやめ、
神を信じ、信仰の道に入らなければならない。
華麗に変身する、それを教えるのが真の宗教ではないだろうか。
356:ターリ ◆gj/PBgopxU
11/08/17 17:19:50.15 iJEoi4cV
神中心って言ってる奴は自分中心ゆえの神中心になってないか気をつけてね。
357:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:22:20.24 nLURYv3z
>>354
大間違いです。
ヨハネ伝15-13「友のために自分の命を捨てること、これ以上に
大きな愛はない。」自己愛を否定することで利他愛が成立する。
パウロは、イエスを神の如くに祭り上げ、十戒の第一に違反する。
358:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:23:33.69 YMJwBaBS
>>355
ローマ 12章 2節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、
何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる
ようになりなさい。
この「変える」は字義的には「変態(青虫から蝶への変化)」を表す。
「いただく」とあるから自力でするのではなく、神に頼り、神主導で変わることを謙虚に認めるべき。
359:ターリ ◆gj/PBgopxU
11/08/17 17:23:58.82 iJEoi4cV
>>357
その意味での利他愛を他人に勧めることは自己愛じゃないですか?
360:Johannes
11/08/17 17:43:28.23 TCo85n6d
基督教が偽善的と言われる所以だ。
361:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:44:52.82 YMJwBaBS
>>357
「隣人を自分のように愛しなさい」これは自己愛と利他愛が両立しているぞ。
イエスは隣人愛の最大のものについて語ったんですよ。常に命張れとは教えていないよ。
イエスはぶどう酒を飲み、食事も楽しんだ。逆にイエスは奇跡によってぶどう酒や
食べ物を人々にふるまった。これは両立していないでしょうか?
コリントの信徒への手紙一 11章 3節
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、
そしてキリストの頭は神であるということです。
パウロは何もイエスを神の如く祭り上げてはいませんが…
362:神も仏も名無しさん
11/08/17 17:47:49.72 nLURYv3z
>>358
引用した章節もそうなのだが、パウロは肉体を否定することで一貫し、
死んだ者のように生きることを勧めている。
神はこの世を良しとするのだから、パウロの考えは誤りでしょう。
>>359
利他愛は簡単ではないと思う。奥の奥で自己愛と絡み合っている。
結局は自分のためというケースがほとんどでしょうね。
それだから、聖霊体験や霊魂体験が欠かせない。