11/02/19 12:42:33 StGQRS9t
社会は、人が社会において生きることを望むのであれば、絶望せずに死ねるようにしてやらなければならない。
その方法は一つしかない。個々の人間の人生を無意味化することである。
一人ひとりの人間が、人類という樹木の一枚の葉、あるいは社会という肉体の一つの細胞にすぎないとするならば、
死は死でなくなる。集合的な再生の一つの過程にすぎなくなる。
もちろん、そのとき人生もまた人生ではなくなる。それは、生命全体のなかの一つの機能的過程にすぎず、
全体との関連がなければ、いかなる意味ももたない存在となる。このようにして、人の実在を社会における実存とする楽観主義は、
直接絶望へといたる。その絶望は全体主義に通ずるしかない。
だが、人の実在は、絶望における実存、悲劇としての実存である必然性はない。
信仰における実存が可能である。信仰とは、神において不可能が可能になるという確信、
神において時間と永遠が一体となり、生と死が意味をもつとの確信である。