11/09/24 14:54:34.63 PduxhH8e
≫で、473さんは、そのスペースをやっぱり私(私そのもの?もしくは体験しない私?)と呼ぶのでしょうか?
そこから始まるのでって、それを呼ぶ理由はありません。
肉体として社会生活をする私を私と呼ぶだけで足ります。
一つの冗談として存在するわけでもなく存在しないわけでもない無上の悟りなどと、
維摩経のヴィルマルキールティは語っておりました。
> ここであなたの言う私、は私ではなく一片の思考にすぎません。
≫おっしゃるとおり私が申し上げている「私」とは、一片の思考です。
いえ、話が通ってません。
複数の思考と記憶と夢の構造である無意識の集大成である自我=私
表層で一時的に主人になってる思考=私
後者から目覚めて初めて前者に取り掛かる準備ができるということです。
ちょっと過去レスを読み直してみてください。
どうもやはりご自身のペースでしゃべりたいことをしゃべっているだけで私の述べていることを把握できていません。
≫ただ、無意識の集合体である統一された自己の出現というプロセスは、誰にでも起こることではなさそうです。
単に、どのような自分であっても全てを認める、というプロセスのことなら、誰にでも起こると思います。
表層的な自己認識と同化していると、無意識の自分を知らないし受け入れられません。
自分の全てを受け入れるということは無意識を受け入れられる、無意識を知っている、表層意識が主人ではないということになります。
(瞑想が失われると表層意識が主人になってしまうがまあ自由に取り戻せる)
これは方向を変えただけで同じことを意味していると思います。
≫> それもあなたの一部ですが、24時間だか1週間だかそれを合計してのあなたです。
悟りは現れたり失われたりだとか、映画なども見るとおっしゃられていたはずですが。
無論私もそうなのですけど。