11/09/21 19:04:03.05 756GdDIA
自分はどこか?
今は怒りについて学んでいたところでした。
油断すると相手の立場を考えず間違いや虚偽に怒りをあらわにするのですが、
自分の虚偽に精通するにつれ相手の立場に立つことができ始めます。
みんな主観では優しくて利他主義で公正なんです。
そのあたり「ゆっくり怒りが減り始めます」という記述にびっくりしました。
怒らないふりと怒りが減ることは全く別の事です。
ですが、たとえ怒りが内にあってもそれを表現しないのは礼儀というもので、
それを怠った私が起こられるのは当然です。
内にに怒りがあれば表層の礼儀などその人の実存にとって意味はなく悟りにおいて意味はありませんが、
内に怒りがあることを知ってなおそれを表現しないのは行であると思います。
穏やかに振舞おうとして自分の怒りがないと思い込むのは誤った道です。
預流果の人ではこの迷いに入ってしまうでしょう。
これを克服したのが不還果なのでありましょう。
そこにたどり着くまでは生徒であり弟子なのです。
自分と他者では自我の構造が、経験が思想が夢が世界が何もかも違うので今の自分では教えることなどできず、
あくまでかかわりの中で己の夢の構造を学んでゆくしかないのだと悟り始めるのが一来果かもしれません。
教えることで自らを損なわないのは不還果からだと思います。これはわからないことですけれど。