悟りを開いたことあるけど何か質問ある?at PSY
悟りを開いたことあるけど何か質問ある? - 暇つぶし2ch384:神も仏も名無しさん
11/09/14 14:00:09.62 PJQWfPGY
>>379
「いつでも死ねる状態とは何なのか、どのような状態のことか」
という質問ではなく
いつでも死ねる状態 「のもの」 が暗に認められているが
なんで そこ に それ があるのか てことね

「自分を求める人がいるから生きてる」?
何かに「求められている」というのは、「求められている」というだけ なのに
それが「だから死なない」とか「生きる理由」 などに変換されているのはなぜだろう?
「他人からの評価やニーズの重要度」を不自然に高めているのはなんでだろう?
人から一切求められていないということは、生きる価値がない ということなのだろうか?
なぜそういう考え方をするような、とある価値観の尺度 を自分は握り締めているのだろうか?

この尺度に基づいた先にある、悟りや神や仏?などは、
やはり、それらを最高潮に成し遂げているスーパースターとして描かれている、、、
それが、「その尺度が描き出す」、「その尺度による答え」となっている
ところでそれはともかく「なぜ」そんなことを自分がしているのか(求めているのか)
突き詰めて考えてみるほうがいい、と思う

385:神も仏も名無しさん
11/09/14 14:11:28.43 PJQWfPGY
「きみが持っている価値観の尺度」を否定している、という話ではなくて
どうして、自分はこれをもっているんだろう、と考えてみませんか?ということね

それにより導き出されたものが、間違っているかどうか、ということについては
「その尺度で測れば、間違っていない」し、「別の尺度で測れば間違っている」になる、となる(当たり前にそうなる)
だから1000も2000も価値観の精度を比較しあうことに意味はない

持ち寄った価値観、尺度 の精度がどれだけ高いか、ではなく
なぜ、自分が、とある価値観の尺度を持っているのか?ということに注目していく
そうあること、それを肯定したるものはなにか、なぜそれはそうしているか と

386:神も仏も名無しさん
11/09/14 19:34:49.15 93JGEWFk
>>384-385
そういうくだらないことは考えるだけ時間の無駄。
ま、知ることが悟りだと思ってるんなら、死ぬまで考え続けたらいいんじゃないすかね。
その手の答えは絶対に出ないけどね(あるいは既に出てる)。

哲学的な問いみたいなのは嫌いなんだよね。知の限界を知ろうとしない。
数学や物理などは、本質的に証明できないあるいは確定できないことを認めたからこそ、
飛躍的な進歩を遂げたわけで。
限界を知らない限り、先はないよ。

387:ama
11/09/14 23:50:03.63 FlscDUEZ
>>317
痛みを避けることは体を守るために役に立つからです。
もちろん必要以上に恐れることは役に立ちません。
そこに葛藤があるかどうか、
自分を苦しめるかどうかで分かれます。


388:ama
11/09/14 23:52:14.83 FlscDUEZ
私が申し上げている幻想というのは、
私が創り出している、という意味です。
私がいるからこそ、その痛みはあるのだ、という意味です。
私は、存在しておらず、同時に存在していますので、
痛みは、幻想であり、同時に現実なのです。

悟りは、観るか観ないかですから、
そこにはレベルはありません。
ただ、選択だけがあります。
気づいていない人は気づきたくないだけなのです。

389:ama
11/09/14 23:58:43.00 FlscDUEZ
>>367
はい、赤ん坊には、自分/自分以外、という区別がないと思われます。
動きとか変化といったものが認識できず、一瞬だけを認識していると思われます。
ですからおっしゃる通り、見えるものは1枚の絵のように見えていることでしょう。
名前も持っていませんので輪郭で区切ることもしておらず、
その絵は意味不明の抽象的なものであると思われます。


390:ama
11/09/15 00:01:14.56 FlscDUEZ
そもそも自分という観念を持っていませんので、
絵の中に溶け込んでいるとも言えるでしょう。
そして、もし、私が、世界をそのように観るなら、
面白いことに気づいたりします。

391:神も仏も名無しさん
11/09/15 00:13:31.25 5mik1+B0
>>386
「そこは問うてはならない」が ない という設定は苦手?
圧倒的にバーリトゥードゥよ?

392:神も仏も名無しさん
11/09/15 00:20:57.59 svlxUL9E
>>389
これって想像で書いてるんだよね?
無意味じゃない?

393:270
11/09/15 00:31:11.28 4jRfUIdY
>>390
もしかしたら、世界が世界を見てる?ですか?

394:神も仏も名無しさん
11/09/15 01:23:30.07 svlxUL9E
>>390
面白いと感じる何かがありますか?

395:神も仏も名無しさん
11/09/15 03:11:58.53 NWXQXM4z
自分なんていない
そのことを理解すれば、自分なんて向こうからやってくるっす

396:神も仏も名無しさん
11/09/15 06:40:18.62 MoC9nNUP
>>388
質問なのですが、
悟った後でもテレビを見たり小説を読んだりするんですか?
あるいは、趣味がなくなるようなことはあるんですか?
普段の生活はどのようなことをなさっているのでしょうか。
教えていただけるとありがたいです。

397:神も仏も名無しさん
11/09/15 08:19:26.23 mRvERCnz
解放された気分です


398:神も仏も名無しさん
11/09/15 11:00:12.08 CpTHl1YV
>>1
多くの人が悟れないのは、
悟ることにより個を超えた大きな苦しみが見えてしまうから
だと思うんだけど、どう思いますか?

399:神も仏も名無しさん
11/09/15 11:14:07.99 ZC+SCyP2
>>398
自分の殻を打ち破るのが難しいからだと思うよ。

400:神も仏も名無しさん
11/09/15 13:00:52.48 oR6vSAUh
>>398
>個を超えた大きな苦しみが見えてしまうから
「個を超えた大きな苦しみ」を「見ている」のは(そうしている主体とは)、過去が構築した自我
今(悟り) において、過去が構築したもの は存在しない

401:神も仏も名無しさん
11/09/15 13:09:48.78 OemGF0mf
>>398
むしろ、個を無くすことを、苦しみとして感じてしまうからではないでしょうか

ほんとうは個が無くなれば、苦しみも消える
個の意識が苦しみを作り出すからです
例えば、寝ているときは、苦しみはないでしょう?

要するに、自分で作り出した苦しみに苦しんでいるのが、人間です
それを、理解するのが、見性
それが理解できると、苦しみは苦しみではなく、成長の糧となっていることがわかる

そうやって、理解が進むと、それは、向こうからやってくる
だから、まずは、自分を知ることです

402:神も仏も名無しさん
11/09/15 13:30:41.97 ZC+SCyP2
>>401
>だから、まずは、自分を知ることです

あなたにとって「自分」とは何ですか?


403:神も仏も名無しさん
11/09/15 14:07:41.48 oR6vSAUh
>>401
>苦しみは苦しみではなく、成長の糧となっていることがわかる
苦しみは苦しみ 成長の糧ではない

もし苦しみが苦しみではなく、成長の糧だというなら
その2つの間に 変換を行っている何者かの介在 があることになる
その 介在にとって は、苦しみは成長の糧 となっているのだろうと思う
では、そこに存在している その変換を行った介在 とはなんだろう
また、なぜそれはそこでそんなことを行っているんだろうか

404:神も仏も名無しさん
11/09/15 14:27:54.66 OemGF0mf
>>402
ここで、いう自分は、思考かね

>>403
例えば、苦しみを苦しみとして認識しなければ、乗り越える必要はないよね
苦しみを感じるからこそ、生きる知恵を知る
全て自分で、作り出した苦しみ

その働きは一般的には、自我と呼ばれるものかな?


405:神も仏も名無しさん
11/09/15 14:42:44.49 oR6vSAUh
>>404
>苦しみを苦しみとして認識しなければ、乗り越える必要はない
苦しみを苦しみとして認識 「したとしても」 「乗り越える必要」 が ある のだろうか
なんで 「苦しみ=乗り越えるもの」 という設定がそこにあるのだろう

403でも質問したけど答えてもらってないのが、なんで「そのままのもの(今回は「苦しみ」)」に何か手を入れようとするものがあるのか
そこに存在している その変換を行った介在(手を入れているもの) とはなんだろう
また、なぜそれはそこでそんなことを行っているんだろうか

406:神も仏も名無しさん
11/09/15 15:07:28.35 1q4bokTg
悟りを開くと何が変わるのでしょうか

407:神も仏も名無しさん
11/09/15 15:20:28.97 OemGF0mf
>>405
そうだね、苦しみは乗り越える必要はない
なぜなら、生み出した本人が苦しんでいるのだから
それに気づかなければ、乗り越えたとしても、また、新たな苦しみを作り出す
それは、一生つづく
だから、その設定が、苦しみの元とも言えるね

では、なぜ、そういう仕組みが働くのか?
それは、しらん
もっと、知ってる人に聞いとくれ
その仕組みの名前は、我だと思うが

408:神も仏も名無しさん
11/09/15 15:22:19.24 OemGF0mf
>>406
女にモテモテ

409:神も仏も名無しさん
11/09/15 16:00:03.53 oR6vSAUh
>苦しみは乗り越える必要はない
そうではなく、苦しみに対しての判断が「いかなるものであろうとも」、
「事象a(今回は苦しみ)」 に対し ある何かが、手持ちの尺度を用いて何らかのジャッジを下す、という構造
判断をx、結果をb(成長の糧)とすると ax=b この 構造自体そのもの に対しての疑問だった
a=a では?と そこにおいての介在(判断x)とは何か と

410:神も仏も名無しさん
11/09/15 16:20:03.18 OemGF0mf
>>409
a=aの場合苦しみは生じない

例えば、貧乏=貧乏という認識は、苦しみの入る余地はない
貧乏は、貧乏であって苦しみではない

では、なぜ貧乏=苦しみが成立するのか、と言うと、そこに、自分が介在するから

貧乏×自分=苦しみ

となる

だから、自分というものを知れば、結果は自由自在ということ
成長の糧にするのも、苦しみにするのも、自分しだいってことだ
さらに、その自分というものが、何なのかを見抜けば・・・

おっと、誰か来たようだ。。

411:神も仏も名無しさん
11/09/15 16:46:53.69 oR6vSAUh
>結果は自由自在ということ
しかしこれはあくまで 結果は自由自在ということだ ということに「することができるよ」としている わけで
もとにあるものは 貧乏=貧乏 であること に変わりはない
「貧乏」は、やはり一歩も動かずそこにそのままある

「貧乏」に対し、別の異なる解釈の「介在」を入れてネガをポジに捉える が可能だ ということではなく(ちなみに可能と思う)
そんでその結果が良いか悪いか ということではなく、「そのような構造から出された結果のいかなるものにも疑問」 という場合
その人は、その根本構造 をまな板にのせる のではないだろうか
これは一体全体まとめてひっくるめてどういうことだ、一体なにをしているんだ と

412:神も仏も名無しさん
11/09/15 17:09:18.30 OemGF0mf
>>411
その通りだよ
どうにもできないことがわかったら、
自分をまな板の上にのっけて、食べてしまえばいい

413:神も仏も名無しさん
11/09/15 17:52:46.46 PhFqD6Ys
スレ主は凄いと思います。
感情や思考などの概念による混乱を脱しておられますから。

ですが
>>226
> ・生命は死んだら終わりと言い切る根拠。
すべては私の創造物ですから、
私が消えたらすべてが消えます。

このあたりに、思考や感情に巻き込まれないのは、もう単純に体にだけ巻き込まれ、
体によって自我というものが形つくられているからではないかと思います。
どちらにせよ大部分の混乱から脱せられ、悩みなくこの世に対処してゆく知恵をユーモアたっぷりに伝えるスレ主の
存在は大変に、美味しいです。心地よいです。

体によって作られた自我というものが無ければ、私に始まりも終わりもないでしょう。
あえて自殺行為しないのは当然ですが、もし死が訪れたなら私のない存在であったなら苦しむ人が不在なのでそこには何もないでしょう。
(これは私の手に余ることなので推論ですが、私がないのに、痛がる怖がる主体がないのに痛みと恐怖があるのはおかしい)

ある大きな束縛が死んだ。私の大部分が死んだ。
でもまだ私が残っているということはある。
更なる気付きにくい前提が残っているということはある。
こんな感じではないでしょうか。

そもそも悟りがあったりなくなったりという正直なお話があるので悟りではあっても
話に聞く光明とは別のものであり、それは完全な自由ではない。
完全ではなくてもすごく自由であるのは確か。

ps私は生きる知恵があんまりないのでいろいろ教えてくださいね。

414:神も仏も名無しさん
11/09/15 20:39:32.92 MZlJyHwY
死んだら終わりなわけないじゃん、終わりならお盆も信じないで先祖供養もしないし
墓参りだって行かない。命日だってなにもする必要ないし、肉親の3回忌だろうが10回忌だろうが
なにもしなくていいのかい

415:神も仏も名無しさん
11/09/15 20:56:44.90 5OPPhf6y
そういう信仰をもつ奴はすればいい。
無い奴はしない。
むしろそういう信仰は一部だと知れ。

416:神も仏も名無しさん
11/09/15 21:00:33.98 MZlJyHwY
>>415
神も仏も信じてないお前のような奴が宗教板では一部だと知れじゃないの

417:神も仏も名無しさん
11/09/15 21:04:32.00 MZlJyHwY
>>415
お盆に先祖供養をする人や自分の親や子の命日に仏壇に祈る人は国民全体でいえば
お前が考えるに一部だと知れになるのね。国民の何割位に相当するのが一部と称されるのか
教えてくれ

418:神も仏も名無しさん
11/09/15 21:06:17.73 JII/q17N
>>414
よく読んでいけば>>1が「死んだら終わり」と言っている意味がわかるのではないかと。


>>415-417
チベット死者の書だと49日間だけだし
日本仏教(全宗派かどうかはしらんが)は50年くらい供養しろと言うし
大阪のおばちゃんで「死んだら終わりやで」っていう人を見たことあるし
まぁ色々あるってことで


419:神も仏も名無しさん
11/09/15 21:07:11.20 5OPPhf6y

神なぞ信じてない。
神という実在を信仰する人がいることと、神と名付けたくなるようなものがあるのだろうということは認める。
仏とは仏陀=目覚めたもの、のこと。

420:神も仏も名無しさん
11/09/15 21:08:33.87 5OPPhf6y
>>417
知るか。w
日本人だけが人間じゃない。

421:413
11/09/16 00:56:35.29 r2357Qfg
>>226
> ・生命は死んだら終わりと言い切る根拠。
すべては私の創造物ですから、
私が消えたらすべてが消えます。

さて、ここは面白いのでさらに突っ込んで検証してみます。
まず、生命=私という前提があるように思うのですが、生命=私という確実な証拠はありません。
生命と私が別個である可能性はあります。
ブッダ達は別個だと仰いますが、私は実際に別個だと見極めたわけではないのでよくわかりません。

①体が死んでも私は死なない
これは過去生の記憶を持っている人やブッダが証言できる
②体が死んだらどうなるかわからない
これも非常に誠実であり知性的な人間なら発せられる声明です

しかし
③体が死んだら私と私の作った世界は消える
という声明は不可能なのです。
死んだことないのにそれについて論じるのは不誠実ですし、もしこれがその通りなら死んだら帰ってこれないので
実体験した後でこの声明を出すのも不可能なのです。

経験した上での声明ということでしたら①と②の声明しか出すことは不可能なのです。
ゆえにこの声明③は実体験の伴わない思い込みであるほかないのでは。

422:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:20:39.67 nP5ifS/y
>>421
所詮は机上の空論。
全てが根拠のない憶測に過ぎない。

423:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:21:35.85 kSB96hhZ
神がいるとするのなら、神でないものが生まれる
この世一切が神であるとするなら、神はいるのであろうか?

424:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:52:00.16 le/s94fc
仏陀が生命と己が別個だと言ったなんて聞いたことないけど



425:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:56:20.94 le/s94fc
過去世の記憶を持っている人間がいる=過去世の証明になる訳ないじゃん

過去世体験者の体験が夢や思い込みでないなどと言う保証はないのだから



426:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:57:13.73 kTDX+H/Q
仏陀さんこんばんわ。 カップラーメンでは何が好きですか?

427:神も仏も名無しさん
11/09/16 01:58:37.47 kSB96hhZ
ちきんらーめん

428:神も仏も名無しさん
11/09/16 02:01:27.94 le/s94fc
何故1が死んだら世界も消えると断言するかというと、我々が見ている世界とは幻想だからなんだよ
世界とは私があるから存在する
これは死ななくてもわかる。
我々の世界とは記憶や思考などで成り立っているのだから
記憶や思考をしている私が消えればその世界も消える
これは当たり前の事
瞑想というのは記憶や思考を捨てる事でもあるので、ある意味では死=世界崩壊の体験なんだよ


429:神も仏も名無しさん
11/09/16 02:09:54.60 kSB96hhZ
私もまた、世界があるから存在するのだけどね

430:神も仏も名無しさん
11/09/16 03:22:26.02 kSB96hhZ
私が記憶である、とするなら、
私はあなたでもあり、あの娘でもあり、神でもあり、宇宙人でもあり、放射能でもあり、くっさいおならでもあり、あれでもあり、それでもあり、これでもあり、ということか・・・
記憶される前、たった今には、私はいないということになる


431:神も仏も名無しさん
11/09/16 03:30:43.98 kSB96hhZ
そこにあるのは、、、縁?

432:ama
11/09/16 06:52:03.08 PG8hUdOt
>>392
はい、これは想像で書いています。
無意味かどうかはそれが役に立つかどうかで分かれます。


433:ama
11/09/16 06:53:32.72 PG8hUdOt
>>390
私が世界ですから、おっしゃる通り世界が世界を見ているとも言えます。

434:ama
11/09/16 07:00:46.56 PG8hUdOt
>>394
私がいて同時にいないということや、
世界が私であるということです。
たとえば「色即是空」であり同時に「空即是色」である、
などということは論理的に破綻しており、
それまでは意味不明だったのですが、
「ああこのことを言っているんだ」と分かったときは、
とても面白かったです。
論理自体がはじめから壊れていたんですね。

435:ama
11/09/16 07:16:04.81 PG8hUdOt
>>396
人それぞれだと思います。
私は、テレビはほとんど見ませんが、
映画や本や漫画やアニメは好きです。
悟って趣味がなくなることはありません。
悟る前と同じ生活をしています。
ただ、悟ると、わざわざ自分を苦しめる選択はしなくなります。
葛藤や薄ら寒さをあえて選びません。

436:神も仏も名無しさん
11/09/16 08:27:31.66 bUJNQa1E
>>432
悟りに関する限り、
想像が役に立つことなど無いと思いますが?

437:神も仏も名無しさん
11/09/16 08:30:09.59 bUJNQa1E
>>435
>ただ、悟ると、わざわざ自分を苦しめる選択はしなくなります。

悟ったのに、まだ選択をしているの?

438:396
11/09/16 09:52:10.51 qEpfwgAp
>>435
ご返信どうもありがとう。
予想通りというか、どうやらあなたは「空」を悟ったわけではないみたいね。

一応、言っておきますけど、「色即是空 空即是色」は間違ってませんよ。
このように二つ並べるってことは、色(ある)と空(ない)が、表と裏の関係にあることを言っているんですよ。
「表は裏である」と同時に「裏は表である」。
要するに、表は、表から見れば表だけど、裏から見れば裏となるってこと。
「表は(裏から見れば)裏である」「裏は(表から見れば)表である」

絶望(苦しみ)があるのは希望があるから。希望があるのは絶望があるから。
望みを叶えることが不可能となれば、希望が絶望に変わる。
絶望の中に光を見い出すことができたら、絶望が希望に変わる。
苦しみをなくすためには、希望や絶望を生む原因となっている煩悩(欲)を捨てるしかない。

欲を捨てたら人生がつまらなくなる(鬱状態のようになる)、と誤解する人もいるようだが、それは正しくない。
欲というのは捨てても、あとからあとから涌いて出てくるものなんだよね。
食欲と一緒。しかし、無欲の状態であれば、粗食ですらありがたいと思うようになるんだよ。

439:396
11/09/16 10:08:04.73 qEpfwgAp
訂正
誤:「表は(裏から見れば)裏である」「裏は(表から見れば)表である」
正:「表は(裏から見れば)裏である」「裏は(裏から見れば)表である」

「表は表から見れば表」
「裏は裏から見れば表」
「表は裏から見れば裏」
「裏は表から見れば裏」

440:神も仏も名無しさん
11/09/16 11:58:19.96 bUJNQa1E
>>438
>予想通りというか、どうやらあなたは「空」を悟ったわけではないみたいね

「空」は悟るものじゃないよ。
悟ると「空」に見えるんだよ。

441:神も仏も名無しさん
11/09/16 13:02:47.87 j7lOgzp0
>>438
「悟る=無欲になる」という「尺度」を握り締めているように伺える
「無欲」というものを持つには、「その反対のもの(貪欲)」がなければならなくなる それは同じものだ
無欲も貪欲も、「尺度」を用いたから発生したものであり、「尺度がない」という理解の下に、いずれも存在しない

>粗食ですらありがたいと思うようになるんだよ。
粗食は粗食 そこに「ありがたい」などない
粗食をありがたがる ためには 「粗食をありがたがるために用いる尺度」 が必要となる
それは、思考の介在 を意味している と思う

442:神も仏も名無しさん
11/09/16 13:53:30.09 j7lOgzp0
これまでもこれからも 今 しかなく、今 の中には、過去(思考)が入り込む余地はない
過去のフィルター(思考、自我など)を介在させて出会うありとあらゆるもの は、フィクション である
それが 良いものであっても 悪いものであっても、「介在があってのもの」ならば、そこに一切の差は ない
というのも、良いも悪いも 介在 が定めたもの(これもまたフィクション)に過ぎないから

「無欲に生きる」ということは、常に「無欲」という「精神的構造物(製作者:過去)」を介して生きることではないだろうか
それは 今に生きている ということではないのでは

より居心地の良さそうなフィクションへの乗り換え、、、
さあどのフィクションで生きようかな、ということ
最良のフィクションを追い求めること これらが 生きる ということだろうか

443:神も仏も名無しさん
11/09/16 14:01:56.40 j1xRAgvT
仏が存在することの無い悟りはこれだから
堂々巡り頑張って

444:神も仏も名無しさん
11/09/16 14:33:02.71 kX+ppy7X
禁煙ってのは喫煙することの代わりに禁煙を持続することじゃなくて
喫煙・禁煙という問題自体がなくなること。
有無の無。

445:神も仏も名無しさん
11/09/16 14:33:37.14 kSB96hhZ
フィクションですら無いとしたら、どうだろう?

446:神も仏も名無しさん
11/09/16 14:36:26.10 r2357Qfg
>>1
413 422はあなた宛ての力作なのでお相手してくださいな。

レスしていただいた方は答えは既にあるか意味を読み違えているかのどちらかなので
もう一度読まれるのもいいかと。

447:神も仏も名無しさん
11/09/16 14:44:25.72 r2357Qfg
413 421
でも、難しくてよく意味が頭に入らないということならそういうお答えでもいいです。

448:神も仏も名無しさん
11/09/16 15:56:01.61 bUJNQa1E
>>446
意味が判った上で答えているんだが・・・・・
根拠のない推論をいくら続けても、
結論にはたどり着かないよ。


449:神も仏も名無しさん
11/09/16 16:06:33.41 kSB96hhZ
ノンフィクションドラマって、ほんとは、フィクションなんだって知ってた?
脚本作って、役者集めて、撮影する

全ては、作られた世界
ノンフィクションというフィクション

全ては、ドラマ

450:神も仏も名無しさん
11/09/16 16:21:25.63 5+x9sB/T
>>446
たまにだらだらした長文でああだこうだと書いてるのは私で、私は1とは別の人間です
1が書いたレスについての質問は、1が答えてくれると思います

451:神も仏も名無しさん
11/09/16 16:48:26.06 r2357Qfg
≫根拠のない推論をいくら続けても、
結論にはたどり着かないよ。

413は自身の体験の話ですし、421では一切の推論をしていないですよね。
徹頭徹尾推論や実体験の伴わない信念にしがみつくことを否定するような内容になっています。
虚偽から離れるための分析をしているところにいただく言葉としては筋が通りません。

≫根拠のない推論をいくら続けても、
結論にはたどり着かないよ。

そう思っているうちは推論は止まないでしょう。
やめるのであれば結論のためでもなく、推論への反発でもなく、ただやめることです。
推論は否定されるものではなく、自分が行っているそれを理解してゆかねばなりません。
あなたは本来不在である推論と敵対してしまっている。
すると相手の書き込みに対応しないオウムのような批判を繰り返すことになる。


452:神も仏も名無しさん
11/09/16 17:00:38.85 bUJNQa1E
>>451
批判じゃなくてアドバイスのつもりなんだけど。

453:神も仏も名無しさん
11/09/16 17:50:40.03 r2357Qfg
≫根拠のない推論をいくら続けても、
結論にはたどり着かないよ。

これは実体験からくる、そして他者の書き込みに感応したスートラではなく、
単なる知的結論なので知的結論の弊害しかないんですよ。
たとえあなたが実体験していたとしても、この文章は害になります。
実体験してたらこんなこと言わないでしょうし。

百害あって一利なしです。あなたにも、周りにも。
実際の思考の観察、実際にとらわれている思考を看過しそれから自身や他者を解放する働きが大切です。

≫批判
人は目覚めない限り、自分自身の中にある悪い部分やまた仮想の悪を他人に擦り付け、
他者を批判したり、助けようとしたりします。
攻撃的な場合も多いのですが主観として他者を助けてあげたいと思っているケースも多いのですよね。

ちなみに人はそのアドバイスが的確でなければまず批判という印象を持ちますし、
的確だった場合は一部のの誠実な人を除いてもっと批判的にとらえ反撃することでその指摘を
吟味しないようにします。

ありがとう。そうだよね。
一見批判と思われるものの結構な割合は善意のアドバイスなんですよね。
虚偽の2元性という精神の構造としては批判も善意のアドバイスも同じなのだけど。

こちらを理解しないでしかも単品でみても有害な言葉を受けた際普通人はそれを非難と受け取る。
しかし、私に理解があり自我から自由であれば、他者の迷いからくる親切があるだけだ。
私までそれを批判として受け取る必然性はない。
しかしどこでも述べていないことに対して反論やアドバイスを受けるね。

451は批判ではなく助言に書き直します。
そして受け取る側は批判として認識するのでご注意ください。
(まともな人は外れたアドバイスを非難と受け止めますし、普通の人は的確なアドバイスほど批判だと認識します)

454:神も仏も名無しさん
11/09/16 18:14:07.63 gd9WpVLk
今の人間は厳しい受験戦争の末
学問を究めるというよりいかに狡く究めるかの方面に逢着しており
群衆を集めれば人の足を引っ張ることには事欠かない。

455:神も仏も名無しさん
11/09/16 18:29:27.96 kSB96hhZ
未知のものを、既知の領域で説明するのには、限界があるのでしょう

宇宙の果ての事は誰も正確には、説明できない
もし、あなたが、宇宙の果てを見てきて、説明したとしても、それは、宇宙の果てそのものではない
言葉には、限界がある

言葉は、実体に張ったラベルの様なもので、それそのものとは、性質が違う
バナナに張ってある、小さくフィリピンbananaと書いてあるシールは、
バナナを表すがバナナそのものとは違う、食べられない


456:a
11/09/16 21:01:28.97 3VClRxED
阿含経の止息法と「深秘法」 北澤米吉著と

金剛頂ユガ中略出念誦経第三 一切成就三摩耶契の関係の秘密を世界に公開する男

457:ama
11/09/17 06:27:05.14 6wCyD69i
>>398
多くの人は悟れないのではなく、
悟らない、つまり悟りたくないのです。
悟りとは別のものを追い求めているのです。

458:ama
11/09/17 06:37:00.06 6wCyD69i
>>406
精神的な自由を得て、生きることが楽になります。
自分という中心がはじめから存在していなかったことが分かります。


459:ama
11/09/17 06:40:59.71 6wCyD69i
>>421
言葉が足りませんでした。
もう少し正確に申し上げると、
「死んだら終わり」ではなく、
「死んでも変わらない」です。
ただ、そのように申し上げると、
なんだか死んだ後に自分が存在するようにも受け取れるので、
「終わり」と申し上げました。
私は、はじめからいないのですから、
死んだ後も私はいないのです。
その意味で、「私は死んだらどうなる?」の答えは、
正確には「何も変わらない」となります。

460:絶対神
11/09/17 06:44:49.45 L79NeAqH
>>459
    「じゃあ、今、この掲示板に書き込んでいるのは誰?」ww

 『仏教って一瞬で突き崩されてしまう下らないものだと思うね』(大笑)

 「存在もしないものは「書き込めない」よ、当たり前だけどね」


461:絶対神
11/09/17 06:45:53.32 L79NeAqH
          「で、変わらないのなら」

     『死んだあとも2chに書き込めるんだよね』

             「お前は」(大笑)

   「小学生も騙せない、嘘いうんじゃないよ、馬鹿!!」


462:絶対神
11/09/17 06:49:12.55 L79NeAqH
     「神のごとき絶対的自己がないというだけの話であって」

        『自己そのものはあるに決まってんだろ』w

       「私、ホントに仏教って下らない宗教だと思う」
争いや憎しみを否定したところからは、何も生まれないと思うよ
何も出来ないし、何も動かない

         『現実を否定してもしょうがないんだよ』


463:ama
11/09/17 06:54:06.05 6wCyD69i
>>436
おっしゃる通り、悟る瞬間は極めて体験的な瞬間であり、
確認的な瞬間ですから、一切の想像は役に立ちません。
一方、そこに至る寸前までは、
ありとあらゆる思考を道具として役立てることが出来ると思います。
何が役立つかは人それぞれで、
それが哲学することだったり、祈ることだったり、
議論することだったり、神秘体験をすることだったり、
まあいろいろですね。

464:ama
11/09/17 06:56:37.95 6wCyD69i
>>437
悟っても選択します。

465:ama
11/09/17 06:59:59.28 6wCyD69i
>>446
はい、どの部分にお相手すればよろしいでしょうか?

466:絶対神
11/09/17 07:59:48.53 L79NeAqH
             「つまりねえ」

  『仏教には、「現実」を「現実」と認識できる「深刻さ」がないの』

「オウムも「この世は幻」っていう仏教の教説を真に受けてあんな事をやった訳」

     『幻じゃないの、現実としてあるの、一度やっちゃったら』

           「取り返しがつかないの」
仏教ってどこまでいっても、「学芸会」というか「お遊戯」的な要素が抜けきらない
宗教だと思う

      『永遠に取り返しのつかない事はこの世界にはあるのよ』
この世を幻なんてうそぶいてよい資格があるのは、「神様」だけだと思うよ

467:神も仏も名無しさん
11/09/17 12:02:05.54 uYM/asah
>>459
「言葉が足りませんでした」じゃなくて「間違ってました」でしょ。
「死んだら終わり」「終わり(がある)」といっておきながら、
そこを突っ込まれると今度は「はじめからいない」「終わり(はない)」。
言ってることが完全に矛盾してますよ。

「悟りを開いた」とかいっておきながら、結局「悟りなんてない」んでしょ?
「私はいない」のであれば「悟りもない」ってならなきゃおかしいでしょ。
それなのに「悟りを開いた(悟りはある)」ってどういうことなの?

468:神も仏も名無しさん
11/09/17 12:37:41.55 uYM/asah
俺はいままで「いつでも死ねる状態」が「悟り」だと思っていたんだが、
もしかしてそれとは別の「悟り」があるんじゃないかって思い始めた。

「絶望をなくすには希望をなくすしかない」「絶望と希望の両方がなくなれば空になれる」
というのは間違ってないと思う。こちらは、いうなれば「無の悟り」であろう。
それと対に成るのはおそらく「有の悟り」。望みがすべて叶うということだ。
「現実の世界」ですべての望みを叶えるのは不可能だが、「夢の世界」ではそれが可能となる。
夢を現実化することができれば、無上の幸せを得ることができるだろう。
それを行うのが、夢見術や瞑想といった類のもの。

つーことで、これからは夢のコントロールに励むことにするわ。
チャネリングもやってみっかな。

469:神も仏も名無しさん
11/09/17 13:34:29.10 WbevEfXN
>>467
おもしろいね。
amaさんがどう答えるか俺も知りたい。
正直に答えるかな、それとも誤魔化すかな。

470:神も仏も名無しさん
11/09/17 14:35:57.19 tfBbgm7Y
何もない ということ理解するのがそんなに難しいんかの?
言ってることがあまりにも単純すぎるから、逆に分かりにくいのかな
少し難しい位の方がよく理解できることってあるのは分かるけど

471:神も仏も名無しさん
11/09/17 14:43:56.26 tfBbgm7Y
1、今 しかない
2、今に何もない

これがどう分からない?

472:神も仏も名無しさん
11/09/17 14:52:16.00 WbevEfXN
>>470>>471
アンカー付けないと、誰に対するコメなのか判りにくいよ。

473:神も仏も名無しさん
11/09/17 15:34:37.50 4t+X9zpV
>>459
ふーむ。
ただ違和感としましては、終わりがないなら始まりがないことに言及すべきで、
あなたは終わりがないと言っておきながら始まりがあるような前提を持っているように見えます。
刻々の始まりと生まれの瞬間に目覚めることによって始まりがないということを刻々と体験しているなら
それを言い忘れたりニュアンスに含め忘れたりするだろうか。

始まりもなく終わりもないと祖師は言うので、とりあえず私は始まりと終わりを見逃さないよう努めています。

うーん。スレ主さんの実際の力量は相当のものでそれが伝わってくる流れにも持っていきたいのですが、
どうも自分が得ているものを拡大解釈している気がしてそちらを突っ込んでしまいますねえ。


474:神も仏も名無しさん
11/09/17 15:42:46.50 4t+X9zpV
これは私自身の体験でもなければ、私のタイプに起こる体験でも道のりでもないのですが、
スレ主の過去と未来を指し示しているように感じたのでOSHOのTAO永遠の大河4巻から要約してお伝えいたします。

以下の内容があなたの過去に似ていたり、もしくはここで書いてある次におこることまであなたに起きていたのであれば
あなたなりの言葉でそれについて語っていただけないでしょうか。
ここで描かれている達成と最後の束縛は私のタイプと違うのであんまり詳しく語れません。
どうみてもあなたは目覚めた波動、自我に深刻でない知性とユーモアがあっても、光明の人にある不可思議な響きはない。
無理して以下の内容をを理解しようとしないで道の挑戦として受け取りに光明まで駆け上がってほしい。


死が起こりその中で目覚めを失わなかった。
今までにない目覚めの質とともにあり、また生命エネルギーは滞りなく流れる。
あなたはまったく自由だ。

しかしここにも2つの可能性がある。
人は快楽に、生に同化してしまうのかもしれないのだ。

あなたは家の近くまで来たがもう達成したと思い込む。
最後の瞬間にあなたは生と同化してしまった。
だれが死などと同化したがるだろう。

幸せに満ちた生を送れるかもしれないが至福は起こらない。
至福は原因のない幸福のことだ。

生に同化せず、
生が起こる瞬間に目を見張っていられたならば、人は生をも超越するだろう。
そうしたところに至福はある。原因もなく何の要因もない至福が。
あなたに至福が起こるのではなくそれがあなた自体なのだ。


475:神も仏も名無しさん
11/09/17 16:05:08.60 fJaLHKRH
批判よりどうやったら悟れるか聞いた方がいいよ
せっかく悟った人がいるのだから


476:神も仏も名無しさん
11/09/17 16:22:08.73 WbevEfXN
みんなamaさんが悟っている事は認めているんだね?

477:神も仏も名無しさん
11/09/17 16:29:01.46 fJaLHKRH
1さんへ
質問です。
歩行禅をする場合、歩行のみに意識を集中させるべきですか?
景色とかは他の感覚には気を取られない方がいいですか?
釈迦も修業者に歩く事を進めましたが、そもそも何故歩く事を観る事が悟りに繋がると思われますか?


478:神も仏も名無しさん
11/09/17 16:32:12.46 tfBbgm7Y
>>471
このレスに心当たりある人に対して

479:神も仏も名無しさん
11/09/17 17:20:29.52 fJaLHKRH
黒澤明が自分の映画の事を「写真」って言うんだよね
「いい写真が取れた」と。
一瞬の美を追い求める黒澤監督と悟りの境地とはは何か関係があるような気がするね
画家も何の変哲もない街角や植物の一瞬の美を描いたりしてるじゃん
我々は画家の作品によって「朝顔とはこんな美しかったのか」とか気付くのだが
これも悟りの目と関係があるような気がする
我々は一旦記憶すると、同じ対象を二度と見ないという。
つまり朝顔を見てるつもりでも見てない。
画家や悟った人は「記憶」から自由になっていると言えるのかもしれない


480:神も仏も名無しさん
11/09/17 17:21:38.33 uYM/asah
>>476
俺は認めてないよ。
本人は悟ったと思い込んでるみたいだけど、おそらく偽りの悟りだろうね。
>>434-435、の書き込みでほぼ確定したよ。

481:神も仏も名無しさん
11/09/17 17:28:56.10 fJaLHKRH
21世紀初頭のこの風景も三十年後にスタジオジブリとかがアニメ化したらえもいえぬ風情のある風景なんだろうな
目の前を横切って行く自動車や買い物帰りのおばちゃんやこの夕焼けなども皆、神懸かって美しいのだろう
しかし我々は見慣れ過ぎて美しいと思わなくなっている。
考えてみれば我々一人一人が映画の中の登場人物の如く、この美しくはかない世界の中で今まさに生きているというのに


482:神も仏も名無しさん
11/09/17 17:35:58.77 fJaLHKRH
北野たけしの映画って
例えば「ダンカン」とかが売店の前でしゃがんで
アイスとかを食ってる風景をただ何となしに取ってたりするじゃん
それが何故かフィルムで見ると癒されるんだよね
しかしそれってどこにでもありそうな風景じゃん
しかし映画として見ると凄く面白い。
日常をまさに映画を見るように味わって生きる事が出来たら最高だと思うよね
アイス食ってるだけのダンカンにすら、我々観客は限りない愛情を注ぐ事が出来る訳で、だったら日常生活の全てが楽しくて仕方がないはず
街角でただアイスを食ってるだけで限りない幸せを感じてもおかしくないんだよな


483:神も仏も名無しさん
11/09/17 17:45:01.20 fJaLHKRH
とか書いていると烏が「カァカァカァ‥」と鳴きながら西の空に飛び去って行ったが、こんなシーンも映画で見ると、美しいんだろうな
映画を見ている時は我々は映画そのものを楽しもうとしているが
日常生活では我々はビジネスの事とか家事や育児などを考えて、必要な情報だけを見ている。
つまり烏の存在などどうでもいい訳だ
しかし映画を見ている時は育児や仕事の事を忘れてその映像に没頭している。
だから「アイスを食ってるダンカンってなんて美しいんだろう‥」と思える訳だ
要は悟りとは、日常生活を全て丸ごと味わって楽しむ事じゃないでしょうか
省略せずに

1さんはどう思われます?
全然関係ないですか?


484:神も仏も名無しさん
11/09/17 22:01:19.69 fJaLHKRH
この世が幻想であることについて1さん語って下さい。


485:ama
11/09/18 09:26:33.92 WsBY1zJ4
>>460
>     「じゃあ、今、この掲示板に書き込んでいるのは誰?」ww
私です。

486:神も仏も名無しさん
11/09/18 09:42:07.00 8u1xzHab
>>485
悟りを開いてなにか所謂霊能力の様な物は手に入ったの?


487:ama
11/09/18 10:10:02.17 WsBY1zJ4
>>467
>>187>>188で、
「私はいて、同時にいない」と申し上げていますが、
これが矛盾しているというご指摘でしょうか?

死んだら私が終わりますが、
実は生きているときから私は終わっている(つまりいない)のです。
いないものは終われないのですが、
実は、いないからこそ、死によって終われるのです。
もし、私が、存在していれば、死んでも終わることは出来ません。
初めから私はいないのに、
それが終わるというのが奇妙に思えるかもしれませんが、
それが幻想の幻想たるゆえんです。

死んだら幻想である私は終わりますが、
そもそもそれは幻想なわけですから、
死んでも何も変わらないのです。

「私はいて、同時にいない」とはそのような意味です。

488:ama
11/09/18 10:12:11.16 WsBY1zJ4
>>467
> 「悟りを開いた」とかいっておきながら、結局「悟りなんてない」んでしょ?
> 「私はいない」のであれば「悟りもない」ってならなきゃおかしいでしょ。
> それなのに「悟りを開いた(悟りはある)」ってどういうことなの?

私がいないことに気づくことを、悟りと言っています。

489:ama
11/09/18 10:15:52.69 WsBY1zJ4
>>473
こちら>>487が答えになっていますでしょうか?


490:473
11/09/18 11:15:25.46 68gQmhpx
>>489
申し訳ないですが正直質問の方向性や質が異なるのでこれは質問の内容に対応して
お答えいただかなければ答えになりません。

473 続き
≫私は、はじめからいないのですから、
≫死んだ後も私はいないのです。
≫その意味で、「私は死んだらどうなる?」の答えは、
≫正確には「何も変わらない」となります。

はじめからいないのであれば
「死んだらどうなるという質問」には

生まれていないので死ぬこともない
という答え以外ありません。

「死んでも何も変わらない」
って、生まれていないはずなのに何が死ぬんですか。
無意識で活動している自我があるから死ぬという観念を持てるのではないでしょうか。

≫実は生きているときから私は終わっている(つまりいない)のです。

「終わる」とはなんですか。
始まっていなければ終わることはできません。
私はないと口では言いつつ、無意識では私の始まりを意識しており深いところでは私があるということを知っているからでないと
終わるとおっしゃることは不可能です。



491:473
11/09/18 11:16:04.48 68gQmhpx
結局無意識では自分は生まれている自分はあるという思考の活動が進んでおり、
表面意識で自分はいないと思い込んでいるからこういったずれが起きるのです。
(理解しているが、理解したつもりの人がやってしまいがちな間違いをしたという可能性もあるのですが)
不生不滅、ブッダはかつて存在したことがない。
知識の上でもこれは有名な言説です。もちろんこれは実際には違うというのはいいですが、
悟りと言っておきながらブッダに反しておいてそれに言及しないのも変な話。

≫「私はいて、同時にいない」とはそのような意味です。
もうやめませんか。
あなたは事実としてで生きているはなく、「そういう意味をあるがままの世界に与えている」
ということを白状してしまっています。

それは意味を超越した類の事柄です。
思考も私も超越したことにおいての意味を伝えることは害悪でしかありません。
言葉を通じてあるがままの無形なる真理を伝達するならともかく、「意味」
などという個人、私の迷いを伝えてどうするのですか。


492:473
11/09/18 11:19:06.88 68gQmhpx
また知的な解説に終始していてとても口のうまい印象。(完全な論理的な誤謬をつかれてますが)
我々は存在しない
ということは森にある葉っぱの数があるぐらいの側面から解説できますし、またそれを語る際に気を付かねばならぬ
理論的非理論的なチェックポイントも無数にあります。


わたしたちは歩き方も息の仕方も習わなかった。
思想も意味もなしで我々は生を始めた。
ただ生を信頼するだけで物事はあるべきところに収まる。


493:473
11/09/18 11:22:17.09 68gQmhpx
後は474のOSHOの言葉をご自身の体験から解説していただけると嬉しく思います。
似たようなことが起きたかもしれませんし、別の事が起きたかもしれません。
ただ、基本的に474にあることはすべて起きましたか?
それともこの文章が彼のいたずらで嘘が書いてあるのでしょうか。



494:神も仏も名無しさん
11/09/18 12:21:22.78 xQO/VPz4
1さんは、生や死は観念作用だと言ってる訳でしょ
観念なのでないといえばない。
悟るとそれがわかると


495:神も仏も名無しさん
11/09/18 12:30:21.21 9tuYciYk
A、肉体の死
B、自我の死(1が>>487でいう「幻想である私」のことで、元々ない(これに死はない→始まりもない)とするもの)

>>487の訳
死んだら私が終わり(A、肉体の死)ますが、
実は生きているときから私は終わっている(B、自我の死)のです。
いないもの(自我)は終われないのですが、(自我「ないもの」は死ねない)
実は、いない(自我)からこそ、死(A、肉体の死)によって終われるのです。
もし、私(自我)が、存在していれば、死んでも(A、肉体の死)終わることは出来ません。(自我が)
初めから私(自我)はいない(自我「ないもの」は死ねない)のに、
それが終わる(B、自我の死)というのが奇妙に思えるかもしれませんが、
それが幻想(自我「ないもの」は死ねない)の幻想たるゆえんです。
死んだら幻想である私は終わり(B、自我の死)ますが、
そもそもそれ(自我「ないもの」)は幻想(ない)なわけですから、
死んでも何も変わらない(自我「ないもの」は死ねない)のです。
「私(肉体)はいて、同時にいない(自我はない)」とはそのような意味です。

どうでしょうか

496:神も仏も名無しさん
11/09/18 12:38:06.78 wYaG5INR
ブッキョうでは死は終わりではない
そしてそう自分に思い込ませるのを悟りという

497:神も仏も名無しさん
11/09/18 12:56:04.51 FgA9yR1n
自我がないと言っているのは、自我じゃないのか?

498:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:07:16.95 xQO/VPz4
自我はないと言っているのは自我=言語的主体であって
言語的主体が言語によって言語の限界について語ってる訳でしょ
数学の限界を数学的に示した不完全性定理の如く
自己言及のパラドックスみたいになってしまうが
それが則ち言語の限界を示している。
「私」というのは言葉にすぎないとも言えるんじゃないの
南とか東というのは人間が生活の必要性から生み出した観念で、本来宇宙に南も東もない
しかし観念としては存在している。
自我もそういったものではないでしょうか


499:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:13:48.81 GKX081Bz
>>498
良いこと言うね。
中観的だね。

世間において無我とは何かを知りたい方は
まず、我(アートマン)とは何か知るといいよ。
その否定が無我だから、仮説だけど。

500:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:16:08.99 GKX081Bz
仮説 ×
仮設 ○

501:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:20:42.80 9tuYciYk
>>497
そうだよ
なんせこれを説明してるときは自我ありあり なもんで
ただ、これを実体験、わが身で実証するとき(>>71)は、何もない ってことをいってる

だから身をもって経験した奴というのは 根本土台の最終的なところ に 自我 がこなく(これなく)なってしまう
この仮想の自我は、実際は本当にはないんだが、
「人間が生きる日常生活上、とりあえずこういう風にして使うと便利なもの」程度のものだ、ということになる
おれの車、おれのPC、おれの家、、、ね、便利でしょう
でも究極的に探すと、無い
だから便利ツール

自我【便利ツール(存在しない)】が、考えた、「私とはこうあるべきだ」
なんかによって散々苦しめられた挙句に、そうならないと自殺したり、人を殺したりすることもある
これを解決するのに、自我が作った物理的精神的構造物を使って、単に右から左に動かしてみたり、ね

502:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:49:00.50 xQO/VPz4
自我とは方便である。

ということは知識としては散々勉強したし
実際に方便だと思うと執着もなくなる
しかし1さんのような強烈な悟りの実体験をした人は少ないのではなかろうか。
脳機能科学者の苫米地さんの言葉で言うなら「一切のスコトーマが外れた状態」
世界のありのままが見えた状態

我々はあらゆるものが仮の存在である事を知っている
しかし虚空なる世界の全体構造までは見えてないだろ?
1さんは直観的にそれがパッと一瞬で見えてしまったのだろうと思う


503:473
11/09/18 13:49:11.93 68gQmhpx
491の続きになります。
>>495
>>1
まず、自我は肉体への執着から構成される部分もありますが純粋に精神的なものでもありますので
ここでは肉体と自我を別のものとしているようです。

自我が初めからないというのであれば、肉体が生きているうちからないし死んでもありません。
というより肉体の生死と自我との同化の有無は別個の事柄なのに妙に混乱している。
別に肉体が死ぬ前から幻想の私はすでに死んでるんでしょう?
幻想の私はすでに死んでおり誰のものでもない肉体だけが生きているということなら筋は通るのに矛盾だらけ。
「肉体が死んだ時に死ぬのは肉体だけでそもそも存在しない私は全く関係ないでしょう」

なんでこういう混乱が起こるかという考察が490‐492。

504:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:54:26.38 xQO/VPz4
だって「肉体」も観念なんだから
「肉体」も本来はない訳ですよ
遺伝情報に従って構成された素粒子の連合体として仮に成立しているだけで、無常。
それを日常意識では「肉体と言われるようなものがある」と思うだけで
本来は「肉体」もない。


505:神も仏も名無しさん
11/09/18 13:59:34.10 xQO/VPz4
しかし悟った人が「いやー肉体なんてものは無いんですよ」
といって女風呂に入っていかれても困る訳で
便宜上「肉体はある」ということで社会生活は成り立っている
幻想だが幻想の上に社会は成立しているのだから仕方がない訳です
悟ったとしても社会上の決まり事は守りましょうというのが中観なのではないか?


506:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:04:06.02 xQO/VPz4
ルールを超越した視点からルールを守っている人は自分の意思でそれを選択しているという意味でルールから自由だが
ルールだから守らねばと思ってルールを守っている人はルールに縛られている。
悟りというのは社会や自然、宗教をも越えた究極のメタ視点を持つ事とも言えるかもしれない


507:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:33:17.32 dMP4Blgw
>>503
「なぜ1にその混乱が起こっているか(混乱が起こっていないなら、なぜそのような表現をしたか)」については1が答えるかもしれません
個人的感想では、1は特に混乱してるようには見えないです(「表現間違った」はあると思います>>282
>>495はたぶん1はこういうことを言ってるんじゃないかな、ということと
食い違いは、AとBの死の使い分けを行っていない点にあるかな、と思いレスしてみました

>>504-506
>「肉体」も本来はない

質問なのですが、なぜ
「遺伝情報に従って構成された素粒子の連合体」は その実在を認め
「遺伝情報に従って構成された素粒子の連合体」が 「仮に成立させたもの(肉体)」というものになると ない となるのですか?

508:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:36:22.84 wYaG5INR
社会や自然、宗教をも越えた究極のメタ視点を持つ事
はいいことかもしれないが
それを悟りと名づけるのはどうか
この語彙を使うだけで 仏教を意識せざるを得ない

509:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:36:49.47 lr1phVay
新世紀エヴァンゲリオンは仏教を元に作られたのでしょうか?
最終回が仏教に通ずるものがあると感じたので
URLリンク(www.youtube.com)

510:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:38:24.87 xQO/VPz4
素粒子の連合体も実在しないですよ
遺伝子も空です。
仮に成立しているだけです。
遺伝子が絶対的実在なら進化はありえない
素粒子も分析していくと更なる微細な粒子が一時的に集まって出来たもので空でしょう


511:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:40:29.64 wYaG5INR
何でも仏教に結びつけるのは
やめたほうがいい
思考が一元過ぎる                 

512:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:41:53.19 xQO/VPz4
そもそも素粒子というのはその実在を確認しようとすると姿を変えたり
観測器から消えたりするもので、存在するとも存在しないとも言えない
よくわからないものであるらしい
我々が意識するとそこにあるが意識しないと消えてしまうということが
実験的に証明されてもいるようです<二重スリット実験
超ミクロの世界も空な訳です


513:神も仏も名無しさん
11/09/18 14:53:20.91 wYaG5INR
未来に解明されるかめ知れない

514:神も仏も名無しさん
11/09/18 15:32:05.21 dMP4Blgw
>>512
>「肉体」も観念なんだから「肉体」も本来はない
このあたりが妙な印象なんですが、
「肉体も観念」と した(している) のは何でしょうか

もしその認識を遡及していきその最終的な基礎土台のところに「思考」があるのならば、なぜ、
その先にその「思考ベース」において存在した(「肉体」も観念なんだから「肉体」も本来はない)という地点において、
唐突にその意見にOKの太鼓判が押されたのか が分からないのですが

【差し当たり「肉体」として指し示すしかない「思考による認識によらない肉体」】と
思考によって描き出された【「肉体」という「観念」】とを 混同されていませんか

515:神も仏も名無しさん
11/09/18 15:39:54.76 FgA9yR1n
自我がないとなるのは、純粋観照者から見た場合のみなんじゃないの?
自我を持ってして、自我がないってのは、
言葉でこれは、言葉じゃないって書いてる様なもん

自我ってのは、記憶によって作られるんだけど、じゃあ、記憶も無いのかってなる
ここの、主さんも、その悟ったと言う記憶を、語ってると思うんだけど、どうだろう?

もし、自分の記憶は、特別で、自我ではないって言うなら、それもまた自我なんではないかな?

516:神も仏も名無しさん
11/09/18 15:51:58.99 xQO/VPz4
514
混同してない。
ある観念を否定するときに別の観念をもってくる必要があるが
その観念も本来は否定しなくてはならないが
その辺はわかってる人が多いと思うので省略した。
要するに言いたいことは貴方が指摘している事と同じである


517:神も仏も名無しさん
11/09/18 15:58:21.70 xQO/VPz4
515
我々が今このスレでやってる事は饅頭(悟り)の批評会みたいなもので、それは饅頭じゃないといえばその通りだが
批評会なのでまぁいいんじゃないかということではなかろうか
批評を通して、饅頭とはこういうものだったのか
と饅頭の認識が深まる事もあろう
しかし食べなきゃ饅頭の味もわからないのも事実
しかし単に食べただけでは饅頭ではなくて
饅頭の観念を食べている事もありえる
饅頭批評を通して、真の饅頭の味わい方を学んでいると考えたらどうか


518:神も仏も名無しさん
11/09/18 16:29:00.65 FgA9yR1n
多くの覚者が言う様に、悟ったと思ったら、それを、捨てなければならない
なぜなら、それを大事に持ち続ける事は、
悟りという観念を持つということに他ならない
結局、それは、他のくだらない観念と変わらず、くだらない


519:神も仏も名無しさん
11/09/18 17:17:50.54 wYaG5INR
どこかに これ以上ない
どんな苦しみもなくしてくれる体験があるとする
それを世界中に探しに行く
そのうち 何のために旅をしているのかわからなくなる


520:神も仏も名無しさん
11/09/18 17:27:36.81 xQO/VPz4
518
それも観念ではないか?

悟りというのはどこかにあるのではなく
今、目の前の現実をよく見る事だとすると
どこか遠くに行く必要はない
目の前の現実をよく見ればいいだけの事だからだ


521:神も仏も名無しさん
11/09/18 18:33:18.50 FgA9yR1n
>>520
そーだね

522:神も仏も名無しさん
11/09/18 23:33:35.49 oGuQLKMN
>>520
ところで結局あなたは何をしているの?
あなたには「悟った人 というのは OSHOや苫米地の言葉の通りでなければならない」という何らかの理由があり
1のレスに、前述の二人の提示した型にそぐわない箇所があると納得いかなくなる傾向があるようだが、、、

OSHOの言葉 というものに相当の固執があると見受けられるが
あなたの提示する制約にパスした人というのが 悟っている人 となる?
あなたにとってOSHOは悟っている人?
だとすればなぜそういえる?

523:神も仏も名無しさん
11/09/19 00:35:40.57 ECcr4aNW
>>1さんにお聞きします
小悟に関しては「自我を捨てる」ということで納得しています
問題はその後の中悟、大悟、光明、解脱の違いについてだと思います
この部分をきちんと説明していただけないでしょうか

それと子供の頃からの宇宙や存在に対する疑問はどの程度のものだったのでしょうか

524:神も仏も名無しさん
11/09/19 01:35:32.79 FcTuJeu4
>>520
思うになぜかはじめに
「OSHOは悟った」という公理があり、そこから「悟っているならOSHOと同じ」が引き出されていませんか
「OSHOが悟っているかどうか」はさておき、確認したいのは「それを判断したのは何か」です

というのも、そもそも「その何か」が成立するのは間違いないとできるもの がなければ、
「その何か」含む、「それが生み出した、以降のもの全て」、つまり「何か自体」and「その何かの思考一切」
今回の例→ 公理「OSHOは悟った」を敷いたもの、又それにより基づかれたもの(「悟っているならOSHOと同じ」等、以降すべて)
は成立する根拠をもてない と思いますがどうでしょうか

要するに、「問いの発生」を成立させたもとになっていると思われるもの自体 の根拠が無いように思われるのですが
つまりまず 公理を敷いた「その何か」が成立するのは間違いないかどうか
間違いないなら根拠を、間違っているなら以降に問いが発生していく構造とはどういうものなのか
を確認してみてはいかがでしょうか

525:神も仏も名無しさん
11/09/19 12:16:48.33 9f/UffFG
OSHOは悟っていない、口のうまいタダのペテン師。

526:473
11/09/19 14:11:03.75 /jET1oDD

少なくともOSHO、ラマナマハリシ、ラーマクリシュナ、グルジェフ

順に、放射線で体全体と歯の持病でひどい苦痛、癌、のど癌、交通事故の後遺症やとてつもない量の腹水
と4者ともものすごい体の苦痛があったわけですが、それに巻き込まれていなかったようです。


520さんはOSHOについて最初に出した私とは別人です。
そもそも悟りという概念自体基本的に仏教のものであり、仏陀がペテン師でない保障はありません。

474でOSHOが述べたことがであるなら真実自分の体験から説明できるし、
偽りだった場合でもやはりの自分体験から真実と偽りの微妙な差を説明できます。
また起こっていない、かつこれがだと無意味いえるような体験が自分に起きているわけでないなら素直にわからないといえばいいだけのこと。
結局これをもとに1さん自身と対話しようとしているだけです。
私は抽象的な話はしません。自分と1さんに実際に起きていることに興味があります。

また523さんは鋭いのですが、瞑想が起こるまでの修行の段階と、瞑想が起こってからの無技法の段階はまったく別のものであり、
今自分がどこにいるか理解して到達したと思い込まずまた、自分にはまだ意味のないことを試みようとしないのが大切です。
このあたりはやはりOSHOが便利なのです。あれだけ語っていれば今の自分にあった個所というものが見つかりますから。
474は1さんにイメージがあっていた。が、まあ光明を得ない限り他者の主観を当てるのは不可能でこのあたりは当たるも八卦。

527:ama
11/09/19 14:53:35.88 9q4VyyD+
>>474
それでは、私なりの言葉で、私の体験を書いてみますね。
ただ、もう10年以上前のことも含まれるので、
あやふやだったり前後したりすることはご勘弁ください。

> 死が起こりその中で目覚めを失わなかった。
> 今までにない目覚めの質とともにあり、また生命エネルギーは滞りなく流れる。
> あなたはまったく自由だ。

目を覚ますと私はいませんでした。
そして、目を覚ましているときだけ完全な自由でいられることが分かりました。

> しかしここにも2つの可能性がある。
> 人は快楽に、生に同化してしまうのかもしれないのだ。

私は人生に幸福を求め、それによって葛藤します。
そしてこれを終わらせるかどうかを選ぶことが出来ることに気づきました。
一方、私は、人生に起こるドラマが好きで、そちらを選びました。
まあ大して意識的な選択ではなかったかもしれませんが・・・。

528:ama
11/09/19 14:58:11.34 9q4VyyD+
> あなたは家の近くまで来たがもう達成したと思い込む。
> 最後の瞬間にあなたは生と同化してしまった。
> だれが死などと同化したがるだろう。

そのころたしか、自分がいないという感覚に色んな意味付けとか判断といったものをしていたと思います。
それがまた私を混乱させていたのでしょう。
その感覚によって幸せになれると思い、それを追い求めました。
ところが追いかければ追いかけるほどそれは手に入りませんでした。
そのころの私にとってそれは、面白い感覚、程度のものでした。
数年後、道を歩いていて、その感覚の中にいながらも、意味付けや判断を行わず、ただ未知の中にい続けたとき、
それまで疑問に思っていたことが、突然、分かってしまいました。
知識としてではなく、体験的に、です。
それは、まったく目の前にありました。
「なんでこんなに当たり前のことに気づかなかったんだろう?」
とそんな感じでした。
「なんだなんだ?そんなことかよ!?」
と思わず声に出して叫んでしまったのを今でも覚えています。
それまで悟りや自分や世界などについて仕入れていた情報は、間違ってはいないけど、正確でもなく、
「ああ、確かにそのように表現するしかないなあ」
というのが素朴な感想でした。
そのときの私の気づきは、どのようにがんばっても正確な言葉で表現することはできないものでした。
同時に言葉自体が初めから壊れていることにも気づきました。
「色即是空であり同時に空即是色であるとは、そういうことだったのか」
「私が世界であるとは、そういうことだったのか」
「宇宙とひとつになるとは、そういうことだったのか」
「前世や死後や神や○○や××やetc・・・、何もかもが私の(私達の)創造物であり、ドラマだったんだ」
頭の悪い私でも、それらを信じている人に、全部幻想だよ、などと言ってみたところで反感を買うだけであることは分かりました。
「みんなドラマを楽しんでいる」
「いいじゃないか」
そんな感じ。

529:ama
11/09/19 14:59:53.56 9q4VyyD+
一方、私は、これらに気づいて安心し、OK、もういいや、と思いました。
でも、自分の生活に起こるドラマには無頓着でした。
思考に引っ張られることに対して、
「別にいいじゃないか」という開き直りのようなものがありました。
もちろんいいのですが、開き直る必要は無かったわけで、
開き直りを必要とする思考に引っ張られていることには気づいていなかったのですね。
いや、正確には薄々気づきながらも、見てみぬふりをしていたような、
そんな感じです。
OSHOが言っている最後の瞬間というのは、
思考が湧き出たときの瞬間のことを言っているのでしょう。
確かに、それをただ監視することは、死ぬことと言えます。
私が死んだとき、つまり、ただ気づいているときに、
思考は消えてゆきます。

530:ama
11/09/19 15:02:55.36 9q4VyyD+
> 幸せに満ちた生を送れるかもしれないが至福は起こらない。
> 至福は原因のない幸福のことだ。

(至福という言葉を使いますか・・・)

幸せは不幸と表裏一体です。
それは快楽ですね。

> 生に同化せず、
> 生が起こる瞬間に目を見張っていられたならば、人は生をも超越するだろう。
> そうしたところに至福はある。原因もなく何の要因もない至福が。
> あなたに至福が起こるのではなくそれがあなた自体なのだ。

ただ観るとき、それは未知の体験です。
全ては「それ」です。
ただ、ただ、それ、です。
私は、おらず同時におり、世界は、なくて同時にあります。
そこでは、論理は崩壊し、因果律も崩壊しています。
始まりも終わりもありません。
よって、至福は、とても静かです。
そして、至福は死です。
それゆえに最強です。
これが、最近の私の体験です。
一方、幸せは、それを追い求めなければ特に害はありません。
幸せは、去来します。
来るもの拒まず、去るもの追わず。
そんなところでしょうか。

531:神も仏も名無しさん
11/09/19 15:12:56.72 ECcr4aNW
>>526
個人的には悟り=TAOだと思ってるんですよ
悟った人や悟っていなくてもいつか悟る人は感覚的に解る
素質のある人はその人の中にTAOっていうものを感じる
みんな独特の雰囲気があるというか毒性が強い人が多い
でも1さんにはなぜかそれを感じない
自我を(一時的に?)捨ててほんわかしてるだけっていう雰囲気がする
悟りって自我を捨てるだけで終わりじゃないって理解してるから
そこの部分でどうも納得がいかない
だから523の質問に答えられるのか知りたかったのです
1さんが本物なら最終的な部分までは到達していなくても絶対に答えられる
単なる神秘体験を悟りや覚醒だと思ったら絶対に人生全部崩壊すると思う
ほとんどの人がそこの罠にはまって失敗してる気がする

532:神も仏も名無しさん
11/09/19 15:17:46.15 XDBvLg6z
預流果、一来果、不還果の順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。

URLリンク(www.j-theravada.net)

ここに4段階の悟りの段階がかいてあるけど、1さんは今までの話からどれに相当するとみなさんは思いますか?
よく読んでから答えて下さい。


533:神も仏も名無しさん
11/09/19 15:25:00.55 uSV+yQjc
悟りなんかない

534:神も仏も名無しさん
11/09/19 15:51:53.38 XDBvLg6z
>>533
有りますがな、そんなつまらない事言うんじゃないの

535:473
11/09/19 16:01:06.67 /jET1oDD
>>531
でも私の質問は目覚め(中悟?)と全体性(大悟?)についての質問なのである意味それについての
答弁になっているかとは思います。あとは寂滅(光明)があるのみ。
(第5段階への到達と第六段階にとけ去るということについてでもあります)
しかし全体性と寂滅はそんなに違いがないらしいです。目覚めと全体性の隔たりが大きい。
目覚めとは自我の束縛に気付く自我でない意識の目覚めにすぎないので始まりなのです。

目覚めると自我が確立するのです。
他者の影響を一時的に受けるものの基本的に他者から影響を受けない完全な自我の自立があり、
それゆえに何もかもを自我によって理解した気になる危険があります。

≫528
どうにも知的な感想で占められている。
自我が死につつあるとき、それを自我が解説しだして結局自我が玉座に座る。
別に何も起きてはいない。起きていると認識するのが自我であり精神です。
(自分にも同じことが起きたからよくわかる)
鏡のような精神ってご存知ですか?
目覚めた人間は現実そっくりの夢を見ることが可能でそれを真実と混同するのです。

≫よって、至福は、とても静かです。
そして、至福は死です。
それゆえに最強です。
これが、最近の私の体験です。

いや、幸せは体験でありはかないものですが、
至福は体験ではなくそれそのものであることとそもそも定義としてあったのに、
「至福が私の体験」ですか?
結局体験者である自我が体験しているだけとまた白状してますよ。

でも、まあそれの何が悪いというわけではないのですよね。


536:473
11/09/19 16:04:45.85 /jET1oDD
当人は幸せでかつ他者に悪意を振りまいているわけでなし。
この点光明に近づくほど苦しむタイプの人と違い、光明に近づくほど喜びにあふれるタイプの人は
何回も同じ地点を繰り返す。
まあ、悪いことでもなんでもない。

ただはっきりそれは光明や悟りとは別物であり、わかる人にはわかるので、
悟りという言葉を使うと不評を買うでしょう。
近い概念ではあるので便利なのですがこういった議論になる言葉は避けもっと単純にあなたの事実を表す言葉でよいのではないでしょうか。
あなたはそれで十分に感じます。
もっと単純な事実として日々幸せに、人と衝突なく生きるさまを分かち合ってゆけると素晴らしいですね。


537:神も仏も名無しさん
11/09/19 16:12:21.30 XDBvLg6z
>>473
532で云うと貴方はどこら辺まで悟りが進んでいるんですか?

538:473
11/09/19 16:15:08.51 /jET1oDD
そう、OSHOの引用で何が言いたかったかといいますと
あるタイプの人は幸せな自我を道の途中で実現するのです。
あんまり物事深く考えないタイプです。
責めようのない完全な自我というのはそういうタイプの成長において存在するのです。

逆にあまりに多くの事を知っていたり懸念していたりする精神は、意識が増すほどにその懸念を同時にすべて知覚するので
その膨大な精神全体を支えきれないで深い混乱の闇に堕ちます。
今度はこれについて相談させてください。

539:神も仏も名無しさん
11/09/19 16:18:16.96 XDBvLg6z
悟って不のイメージ(マイナス思考)が出てくるのは悟りの道を間違えて進んでる状況だと聞いたことあるが

540:神も仏も名無しさん
11/09/19 16:44:17.13 XDBvLg6z
書いたのが流れてしまったので今一度

預流果、一来果、不還果の順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。

URLリンク(www.j-theravada.net)

ここに4段階の悟りの段階がかいてあるけど、1さんは今までの話からどれに相当するとみなさんは思いますか?
よく読んでから答えて下さい。


541:473
11/09/19 18:00:53.09 /jET1oDD
自分以上のレベルを理解することは決してできません。
今の自分の理解できることだけを理解すればよく、わからないことはわからないままにすることが大切です。
悟らなければ他者が悟っているかどうかはわかりません。

また1さんが光明を得ていないように感じるとして、言葉に矛盾があったり、理論と語感に矛盾があったり、
エゴのトリックを具体的に看過できるのでしたらそれをすればいいですが、
彼の実体が見えないのであれば彼は先を行っているのであり、口出しする筋合いのものではありません。

542:神も仏も名無しさん
11/09/19 18:21:55.87 bl4TViWI
>>473
たしかにこの辺でもうやめておいた方がいい
あなた可哀相なくらいまるで相手になってない

543:神も仏も名無しさん
11/09/19 18:39:24.63 taCRt+CP
>>540
ざっと読んでみたが、リンク先の記事は素晴らしいね。
ama氏がどの段階なのかはちょっと判断が難しいが、おそらく煩悩を捨て切れていないという意味で、
初期段階なのだろうとは思う。
いまだに煩悩(欲)を捨て切れてはいないだろう、という推察は>>435の書き込みから。
「~は好き」「趣味がなくなることは(楽しいことがなくなることは)ありません」と
述べている時点で欲を捨てられない(欲を求めている)状態であることがわかる。
煩悩が消滅した者ならこういった返答はまずしないだろう。
煩悩がない状態の者の予想される返答は「好きなものや趣味は『ある』といえばあるが特定はでき『ない』」。

ただし、初期段階に到達したということは、修行を積むことで最終段階に到達する可能性は充分に有り得るだろう。
問題は、ama氏がそれ以上の段階に進もうとしていないように見られる点。

544:神も仏も名無しさん
11/09/19 18:58:05.87 bl4TViWI
>>1
473が悟るにはどうしたらいいか

545:神も仏も名無しさん
11/09/19 19:52:15.59 taCRt+CP
俺の考えでは、悟りは二種類あると思ってる。「無(空)の悟り」と「有(色)の悟り」。

無の悟りってのは、煩悩が消滅する悟り、希望も絶望も自我もなくなる悟り。
この悟りは、瞬間的に得ることのできる悟りでもある。なんらかのキッカケで、突然全てが消滅する。
こちらは俺も体験したことがあるのでわかる。
こういう状態になると、恐怖もなくなるので死は怖くなくなるし、趣味の意味もなくなる。
ただし、この状態を維持するのは非常に難しい。
欲が消えるとはいうものの、それは内なる欲が消えるのであって、
外から飛び込んでくる欲(の発生源)については、普通に生活している限りなくならない。
旨いものを食べたいという欲が消えたとしても、目の前に旨いものが差し出されたら、
誰であろうとヨダレを垂らしてしまうだろう。性欲に関しても同じ。
だからこそ仏教の多くでは出家をすすめ、肉食妻帯を禁止するわけだ。

本来、無を悟った者は、極力持ち物や趣味を減らそうと努力するだろう。理想は何も持たないこと。
なぜなら、それが欲の発生源となるから。だからこそ捨てまくる。

546:神も仏も名無しさん
11/09/19 20:05:03.30 Feg7bSFb
相談があります
悟りはどこまで開くことをいうのですか?

入門はしてませんが法と瞑想で
高次元へ行くことができ
ついに如来の存在を見ました
私が見てる事を気付いてくれました
難しい会話はまだ出来ません

悟りはまだ先ですか?

547:神も仏も名無しさん
11/09/19 20:13:36.10 taCRt+CP
一方、俺がいままで気付かなかったのは「有(色)の悟り」のほう。
悟りというのは一つしかないものと勘違いしてたために、こちらの悟りは全く無視していた。
この悟りは、俺はまだ殆ど体験したことがないため、想像でしか語れない。
簡単に言えば、想像(イメージ)で幸せを極限まで高めること。
想像上の幸せを現実化する(現実の幸せに変える)ということでもある。
これは、瞑想やチャネリング、夢見(明晰夢)の最終段階において得られるものだと思う。

想像の力というものは、極限まで高めると現実とかわらなくなる。
想像の力で(過去に負った)火傷すら再現できるし、全くの健康な者に糖尿病であると暗示をかけて成功すると、
検査上においては糖尿病患者の結果と全く変わらなくなる、ということもわかっている
(糖尿病のことについては詳しく本に書かれていなかったが、おそらくこれも火傷と同様に、
過去に発病した人でなければ再現しないのではないかと思われる)。
要するに、外側から得られたすべての情報は、内側から作り出すことができるということ。

想像力によって幸せをつくることはできるが、それを高めるためには訓練が必要になる。
まぁ、人によっては楽につくることもできる者もいるだろうが、普通なら、
スポーツと同じように訓練しなければならないだろう。それが修行というもの。

548:神も仏も名無しさん
11/09/19 20:15:09.62 QlYA/kW2
光明がどうとかヒンズー教くさい悟りイメージで悟りを語っている人がいるがそれは自分の固定観念で相手をはかっているだけの自己満足に過ぎないよ

549:神も仏も名無しさん
11/09/19 20:27:19.36 taCRt+CP
夢見術などと呼ばれる明晰夢をつくりだす方法がある。
夢見をやっている人に言わせると、夢の中ではあらゆることが可能になるという。
スバリ、異性との性交もできる。しかも、現実のそれよりもはるかに強烈らしい。
現実の性交が馬鹿馬鹿しくなるくらいだ、と書いてあった。
最終段階に到達すると、自分を含めた全ての存在が光の存在に変わり、
無上の状態(幸せの極限)になるという。これがいわゆる光明化という現象であろう。

夢見ではなくとも、瞑想やチャネリングの極限状態も、おそらく一緒のはず。
で、結局何が言いたいのかというと、覚醒時(現実に生きている時)においては「無の悟り」を得、
非覚醒時(夢に生きている時)は「有の悟り」を得るのがよい、ということだ。
欲を捨てることと欲を得ることを同時にする、ということは一見矛盾しているように思われるかもしれないが、
おそらくそれが理想の状態と思われる。

550:神も仏も名無しさん
11/09/19 21:20:18.04 vEDRrYHr

問題
自分が何をしてるか分からない
何が分からないのか分からない
分かってないことが分からない

解決方法
解決したことにする
自分が納得できる形で理解する
頭が良い妄想に取り憑かれる
見下す

551:神も仏も名無しさん
11/09/19 21:35:12.29 Feg7bSFb
>>550
自己を打破せず妥協で落ち着く人だよね
大問題と思う

552:神も仏も名無しさん
11/09/19 21:43:52.07 XDBvLg6z
>>546
俺も実は仏に会ったが事ある

>>難しい会話はまだ出来ません
簡単な会話であるなら出来るなら話をする回数をふやすことだよ

そこから仏による教えが始まる。
ただ相手が本当の仏であるかを知る為にも寺によく行くようにするといい(名の知れた大きな寺がいいよ


553:神も仏も名無しさん
11/09/19 21:51:25.90 taCRt+CP
「無の悟り」のほうは、瞬時に悟ることが可能=修行する必要はない、
「有の悟り」のほうは、瞬時に悟ることは不可能=修行する必要がある、ってことだね。

そもそも、無は得るものじゃなくて捨てるものなわけだから、修行して得られるわけがない。
人によっては無の境地を得るために瞑想や修行をしている者がいるように思う。
おそらくこれは完全に間違った行為だろう。
瞑想という行為は何かを得るためにするもの。
無の境地に達したいのなら、何も持たず、何もしなければいいだけのこと。
瞑想するときは、幸せを想像し、それを極限まで高めること。これに尽きる。

まあ、人によっては何故、現実の欲は捨てて、非現実の欲を得るのか?
矛盾してるのではないか?と思う人もいるだろうが、これはもう、知るよりほかない。
片方が欠けた場合、たとえば、現実・非現実を問わずすべての欲を捨てるということは、
生きている意味がなくなる、最終的には自分をも捨てる、死を選ぶということに繋がる。
一方、現実の欲(快楽)を捨てない限り、それを超える想像上の欲(快楽)は得られなくなる。
現実が足かせになってしまうというわけだ。

554:神も仏も名無しさん
11/09/19 21:53:43.60 HI2w/M2+
>>553
お前、悟ったのかよ
悟ったのならお前のスレ、立てて良いぞ
俺個人的には許す

555:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:20:59.10 Feg7bSFb
>>552
ありがとうございます
さいわい近畿なので、行ってみます
行ったら何をすればいいですか?

556:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:22:42.32 taCRt+CP
>>554
やだよ面倒くさいし。

557:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:23:07.33 HI2w/M2+
>>555
おめーは「禅天魔」を調べてろ

558:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:27:28.61 XDBvLg6z
大きな寺行ったら靴脱いで上がって静かに手を合わせて祈ればいいだけです
寺に行った後は「入門はしてませんが法と瞑想で 高次元へ行くことができ ついに如来の存在を見ました」
これを家に帰ってからやって、お寺に行った後の方がつながりやすくなる


559:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:29:46.65 XDBvLg6z
>>555
558は555さん宛て

560:神も仏も名無しさん
11/09/19 22:38:57.35 Feg7bSFb
>>558
ありがとうございます
先が分からなかったのですが
前に進めそうです

561:神も仏も名無しさん
11/09/19 23:02:05.74 Feg7bSFb
>>557
やだよ面倒くさいし

562:神も仏も名無しさん
11/09/19 23:04:30.57 9f/UffFG
悟りも俗に流れるのだろうか。
識の中に悟りを見つけても、それは幻想だろう。

563:神も仏も名無しさん
11/09/19 23:09:00.18 HI2w/M2+
>>556
>>561
ばーか

564:473
11/09/20 00:41:57.33 dW5GXHrt
病気を感じる人は病気ですが
健康を感じる人もまだ病気です。

病気無くしてどうやって健康を感じるのでしょう。
健康な人は病気ゆえに健康を感じられるのであり、病気は積極面から消極面に引っ込んだだけなのです。
(それはそれでよいことではありますが)
だから多分本当に健康な人は健康を感じることはないのでしょう。

これは自我のお話にもそのまま当てはまります。

ps
1さんを信頼しているなら自分自身の実生活の悩みを相談されてはいかがでしょう。
抽象的な質問は質問事態が無意味で間違ってる可能性があるのですが、実生活の問題はあまりその心配がありません。

565:神も仏も名無しさん
11/09/20 01:40:01.87 iG9YgKoV
>>527-530

566:473
11/09/20 03:05:31.66 dW5GXHrt
>>535続き
どうも落ち着きがないけれど、根本的な認識の違いがあると話が進まない。
無条件の至福が起き、あらゆる体験の儚さを認識し、それそのものであるような瞑想が起きる。

けれどそういうスペースから結局帰ってきてしまうわけです。
あなたはそれを正直におっしゃってましたね。
結局元に戻ってそれを体験として記憶するのです。

そのスペースにいるときだけがあなたなのではありません。
体験を超えたものもあなたですが、体験しているのもそれを説明してしまおうとしたり、
意味を共有したいと望むのもまたあなたなのです。その全体において自分を理解せねば自己欺瞞に陥ります。
それもあなたの一部ですが、24時間だか1週間だかそれを合計してのあなたです。
誰だって一番いいところだけ抜き取ればいくらでも良く見せられます。

あなたは自分の宝物を分かち合いたいのでしょう。
その気持ちはわかりますが。あなたの本当の持ち物はあなた全体なのです。
宝物だけあげる訳にはいかないのです。実存の譲渡においてはあなたはあなた全部を上げるしかありません。

≫私が死んでいるときに思考が消えていきます

ここであなたの言う私、は私ではなく一片の思考にすぎません。
一片の思考との同化が無くなると、目に見える言葉で把握できる思考は静まります。鎮めることができます。
しかしその状態において本当の意味での私、目に見えない思考の集合体は相変わらず機能しているのです。
そしてこの無意識の言葉にならない思考全てが静まった時、私は消えるのだと思います。

私が消えたら思考が消えるというのは順序が逆でしょう。

私が消えたら思考が消えるという言明は、
思考の同化が消えて目覚めが起きて、無意識の集合体である統一された自己が生まれるプロセスを示しています。
他者の影響に過ぎない偽りの自己が消え、あなたの本質が核である統一された自己の誕生です。
そして思考が静まればそれすら消えるのでしょう。

567:473
11/09/20 03:14:29.21 dW5GXHrt
表面上の瞑想しようという欲望、達成の欲望、動機が消えることと、

無意識の関連しない数千数万いや数億の欲望の群れの構造全てが静まることはまた別次元の事。

そしてこの2つの間にあらゆる素晴らしい体験や、体験を超えたという認識やとてつもない英知や至福があるから
気を付けるように言われている。

568:神も仏も名無しさん
11/09/20 04:42:37.71 DxiecMpB
お前らが低レベルな話してるから1さん来なくなっちゃったぞ
いい加減オカルトスレに帰れよ


569:ama
11/09/20 06:54:05.17 MTXl/J9f
>>477
歩くことに限らず、生活全般の中で、どんなことでも丁寧に観ることをお勧めします。
思い込みを捨て、ひとつひとつ確かめるのがその目的です。
ですから、景色とか他の感覚であっても、それに意識を集中して観るなら、
悟りに繋がります。
歩くことがいいのは、それが単調な繰り返しだからです。
実は、単調な繰り返しのように思えるのは、思い込みに過ぎず、
本当は、1歩1歩がまったく新しいのです。
そして、このことに気づくためには、繰り返しの動作が役に立つのです。

570:ama
11/09/20 07:18:00.03 MTXl/J9f
>>483
おっしゃるとおり、それも悟りの一面だと思います。
世界は美しさに満ち溢れており、それに気づくかどうかは、
見る者にかかっています。
一方、美しい、という感想をも超越した世界も、
これまた美しいものです

571:ama
11/09/20 07:51:40.57 MTXl/J9f
>>484
私がいないことに気づくのは私ですが、悟り自体は未知のものです。
既知たらしめるのは、どこまでも思考であり記憶です。
思考は必ず遅れてやってきますので、
今という瞬間に思考は存在しえません。
このことに気づくと、思考が創り上げている世界や私といったものが
実は存在していなかったことが分かります。
私が知っているもの、判断できるもの、意味を見出せるものすべては、
私の創作物だったわけです。
この世が幻想であるとはそのような意味です。

572:神も仏も名無しさん
11/09/20 12:00:47.68 LPNrcWJ1
>>571
このことに気づくと、思考が創り上げている世界や私といったものが
実は存在していなかったことが分かります。
私が知っているもの、判断できるもの、意味を見出せるものすべては、
私の創作物だったわけです


自分の作ったバーチャルリアリティって言ってるの?


573:神も仏も名無しさん
11/09/20 12:18:14.00 hWvY0DJN
なんださとってないんだ

574:473
11/09/20 12:42:57.91 dW5GXHrt
>>491 >>535 >>566
の回答をお待ちしております。
自我がなければ対話ではなく融合と創造が起きえます。
それはできないとしても少なくとも誠実に対話することはできるはずです。
今あなたのしていることは煩わしいものから目を背けて美しい夢にこもっているだけ。
対話にすらなっていません。
私たちを見てください。
あなたの言いたいことを言うための道具として我々を利用するのではなく我々と対話してください。
それを融合や創造だと自分をごまかすと、幸せに生きていけますね、、。

575:神も仏も名無しさん
11/09/20 15:00:09.48 DxiecMpB
君は対話をしたいのではなくて1を否定したいだけではないの?
1さんのスタンスからすると437の体験は幻想ということになると思う。
ただ幻想もまた一つの現実なのでそれはそれでいいんじゃないですか?
というような解答でしょう。


576:神も仏も名無しさん
11/09/20 16:04:29.28 5iPvHnRz
ナワトビ持ってる子供がそれに絡まっていた

1 「どうすっかいろいろ考えてたんだけどナワトビから手ェ離したら一瞬で解けたワロタwww」
473 「本当か?じゃあおれにも「ナワトビを使って解く方法」を教えてくれ」
1 「え?」

473 「対話にすらなっていません。私たちを見てください。
1 「いや、ナワトビを・・・」
473 「あなたの言いたいことを言うための道具として我々を利用するのではなく我々と対話してください。
    それを融合や創造だと自分をごまかすと、幸せに生きていけますね、、。」
1 「・・・」

577:神も仏も名無しさん
11/09/20 16:47:08.88 INzKXOgJ
>>575
437じゃなくて473でしょう。

578:神も仏も名無しさん
11/09/20 16:57:12.95 apv36ELR
悟りを開かれた方々に聞きたい
今年に入ってから日本では、地震、津波、放射能、そして、台風と、近年稀に見る大災害が多発しています

これらも、全て幻想なのでしょうか?

579:神も仏も名無しさん
11/09/20 17:50:45.03 DxiecMpB
全部幻想だからこそ、全部等価とも言える訳で
神秘体験を追い求める人は屡々目の前の現実を下らないものだと思ったりする
しかし観察すると神秘体験も幻想だし目の前の現実も幻想なので神秘体験が大事なら目の前の現実だって大事なんだよ
釈迦や1さんの瞑想は神秘体験も目の前の現実もちゃんと意識しているのでより完成度の高い瞑想だと思うよ


580:神も仏も名無しさん
11/09/20 18:01:22.70 DxiecMpB
趣味でギターをやってるんだが
ある曲を先生の前で弾くと「楽譜通りになってないよ」
と注意される
自分では楽譜通りのつもりでも全然楽譜と違う弾き方をしてるんだよね
つまり「見てない」んだ。
記憶の世界に生きてるんだよね
記憶の世界に生きている限り、進歩はありえない
「見る」というのは本当に難しい。
自我に捕われず「見る」事ができれば「見落とす」事はないはずだが
難しい。
1さんは、正しく見る為には何が必要だと思いますか?


581:神も仏も名無しさん
11/09/20 18:19:36.34 apv36ELR
>>579
ということは、それらの災害も、
自分が作り出した幻想ということで
よろしいんでしょうか?

582:神も仏も名無しさん
11/09/20 18:23:21.66 DxiecMpB
自分がいなければ「災害」もないじゃん
台風だって生物一般からみたら「恵みの雨」かもしれんぞ


583:473
11/09/20 18:32:09.63 dW5GXHrt
>>575
体験を誇った覚えはありません。
体験はすべからくすべて幻想です。

なにか私が否定をしたでしょうか。
私は1さんの述べたことの矛盾であったり、彼の自我の働きをそのまま捕まえてそれを指摘しています。
彼の自我の働きをすら否定はせずただ指摘しているだけです。

彼は瞑想について借り物の言葉だ語ることはできても、自分の事をしゃべったり他者と対話をするとすぐぼろが出ます。
ぼろが出るからいいのです。
完全無欠な演技が身についていたら手遅れですから。

彼の美しい話に幻惑されないように。
ある程度修行すれば、場合によっては殆ど修行しなくても自分に対する誠実さがなければ彼のように
話をすることは可能です。
こういう美しい話は心地よいですが私やあなたの実際の成長に役には立ちません。
それに本を読めばいつでも読めるようなことです。


584:473
11/09/20 18:35:17.32 dW5GXHrt
もし自分が宇宙そのものだったら台風や地震の事をどう感じるだろうか。
このあたりに幻想を理解するヒントがあるかもしれません。

585:神も仏も名無しさん
11/09/20 18:55:15.58 ddtQ0n53
>>473
結局あなたは何がしたいの?
あなたが1の矛盾点を見つけてそれを示したいのはわかったけど、
だからそれを示して、どうしたいの?

586:473
11/09/20 19:09:36.27 dW5GXHrt
一つは誰もに共通の事です。
他者との関係は自分を知るために役に立つのです。
私は私らしくあるだけです。
光明を得ないまま自分を知るため以外の目的で他者と関わるのは求道者とはいえないと思います。

また1さんが私を見抜いて私の精神の働き指摘でき、その克服を示唆できるのならそれも素晴らしいことです。

もう一つはいつか人類に還ってくることです。
目覚めた人間にはいつかボーティーサットヴァになってもらいたいという願いです。
今あるところにとどまらず、また光明を得るにしても阿羅漢ではなく菩薩であって欲しい。
こちらもただそうしてしまうだけです。

587:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:26:09.76 DxiecMpB
1さん、別に美しい話などしてないだろw


588:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:32:05.38 DxiecMpB
473には何の光明も感じないし、文書に知性の輝きもない、ただ「悟り」と言うコンプレックスがあって、
誰かが悟ったとか言うと嫉妬でもいてもたっても居られないタイプではなかろうか


589:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:34:40.74 ddtQ0n53
>>586
上下2つの段は論外だが、真ん中の一行はどうなることやら
ボディーサーファー?、、、うーんやれやれ

590:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:35:39.52 nAyMB+GL
ama氏って、他人の話を聞いているようで全く聞いてないよね。
間違いを指摘されても、全く聞く耳を持たないみたいだし。
ていうか、他人の考えが理解できない人なんじゃね?
精神科に行ったらアスペルガーって診断が下されそうだな。
そういう性格じゃ、社会で生きるのは大変だったろうなあって思うよ。
その苦しみから逃れるために、すべては幻想、
幻想だから悩む必要もないと片付けるようになったのだろう。

だいたい、現実が幻想だからどうだっていうの?
たとえば、悪夢でうなされている人に、悪夢は幻想だから苦しむ必要はない、
といったところで何の意味もないじゃん。
同じように、現実で苦しんでいる人に、幻想だから苦しむ必要はない、
といったところで何の意味もないんだよ。

591:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:42:02.70 DxiecMpB
悪夢を見てる人がそれを夢だと気付いたら苦しまないどころか自由に操れるだろ


592:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:43:18.89 ICr4jQCX
悟りにも種類や段階があるらしいし、
amaさんも仏陀とか阿羅漢とか名乗ってる訳じゃないんだから問題ないじゃない。
473さんは他人を通して自分の信念を強化しようとしてるように見える。

>>590
言葉というツール自体が万能ではないから齟齬が生まれてるようにしか
自分には思えなかった。
共通の体験や語彙を持ってないと特に観念的なことは難しいというか…。
同じ「現実」や「幻覚」という言葉を使っても、体感しているものは全く違うと予想される。
予想だけど。

593:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:49:14.31 DxiecMpB
473は幸福の科学とかGLAみたいなそっち系のカルト信者じゃないかな


594:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:54:59.13 vU8uPYcM
光明って、昔は光の戦士じゃなかったっけ?

595:神も仏も名無しさん
11/09/20 19:55:59.31 nAyMB+GL
>>592
だいたい、ama氏は自分が得た幸福感みたいなのを延々語ってるだけだよね。
他人を救う(悟りを開かせる)といった心が全く見られない。
菩薩や如来といった仏ってのは、衆生救済が目的なわけでしょ?
ama氏みたいな偽りの覚者は、なぜ、悟りを得たものが衆生を救済しようとしているのか、
という、その本当の意味すらわかってないんだろう。

596:神も仏も名無しさん
11/09/20 20:01:47.21 ICr4jQCX
阿弥陀様みたいに人を救うための誓願を立てて悟った人もいれば、
肝心のお釈迦様みたいに悟ったけど一人でそのまま死のうとして
梵天様から「皆に教えてやれよ!」って言われてる人もいるよ。

597:神も仏も名無しさん
11/09/20 20:04:20.70 DxiecMpB
悟りは個人的な体験なんだからしょうがないじゃん
オリンピックで金メダルを取りたかったら自分で泳ぐ練習しなきゃだめじゃん
1がいくら練習しても、その人が泳げるようになる訳じゃないんだから

598:神も仏も名無しさん
11/09/20 21:17:31.05 apv36ELR
悟リンピック

599:小林 白蓮
11/09/20 22:13:43.43 1/xYtyx4
>>166

※「悟りの定義」は普遍的仏法真理を学び、心の法則を知り、心を調律し、水鏡の
 平静なる心境を維持して、透明で純粋な心の内の水底の般若の智慧を得ること
 であります。

 悟ることで、この世ならざる神仏や霊やあの世を実在として霊的に直視すること
 です。

600:神も仏も名無しさん
11/09/20 22:16:42.29 ddtQ0n53
1の話は
「なんでこんなに当たり前のことに気づかなかったんだろう?」
「なんだなんだ?そんなことかよ!?」
というような、むしろあまりにもあっけないものらしい(>>528)けどこれ分かる?

601:神も仏も名無しさん
11/09/20 22:23:41.20 ddtQ0n53
1の話は
「そのときの私の気づきは、どのようにがんばっても正確な言葉で表現することはできないもの」
らしいので、1をもってしても言葉で詳しく解説し切れないらしい

ということはこういうことだ、これはつまり「悟らないと分からない」
だが「むしろあまりにもあっけないもの」らしいのでよかった
難しい話ではなさそうなのだ

602:神も仏も名無しさん
11/09/20 22:36:17.89 ddtQ0n53
そこでこうしたらどうだろう
1、まずさっさと1の言ってることを経験してしまう
2、本当の悟りの世界とは何なのか教える

603:神も仏も名無しさん
11/09/20 22:40:33.27 DxiecMpB
そうね。だから1さんは例えば幸福の科学というドラマを楽しんでいる人には邪魔をしないようにレスをしなかったんじゃないですかね
ドラマを楽しんでいるときに「それってドラマで作り話だよ」といったら白けるからね


604:473
11/09/20 22:55:13.95 dW5GXHrt
>>592
≫悟りにも種類や段階があるらしいし、
amaさんも仏陀とか阿羅漢とか名乗ってる訳じゃないんだから問題ないじゃない。

悟った人の中でも阿羅漢は一人消えてゆく人、菩薩は教える人という区分です。
彼自身は段階の中での悟りという意味でなく仏陀の悟りという意味で使っているので物議を醸しております。

≫473さんは他人を通して自分の信念を強化しようとしてるように見える。
全くその通りでした。
人様の前に出るときはこの上なく意識的であるべきなのですが、ただいま意識的であればあるほどとんで
もないものと対峙しなければいけない状況でここでは思うことをしゃべりっぱなしにしていました。
とにかく賑やかで見苦しい語り口でした。自我の騒音です。

特に私は賑やかでしたが、あなたのおっしゃったことは人間の誰にも当てはまる永遠の命題です。
人は自分の過去の行動を記憶し、それを繰り返したい保持したいと望み、信念が形成され、
他者を通じてそれを共有したり議論したりしてそれを強めます。

自分の信念に全く毒されていない新しい生をここに書き出せるだろうか。
今はできない。

605:神も仏も名無しさん
11/09/20 22:58:12.30 DxiecMpB
>悟った人の中でも阿羅漢は一人消えてゆく人、菩薩は教える人という区分です。

だからそれは誰が決めたの?


606:神も仏も名無しさん
11/09/20 23:10:09.90 DxiecMpB
473
君の得意な「対話」の機会ですよ
自我が無ければ融合と創造が可能なんでしょ
君は対話者を選んでいる訳で君の定義だとそれは君の自我が大きく作用している事になるよ


607:小林 白蓮
11/09/20 23:11:03.31 1/xYtyx4
>>118

※「悟るための方法について」

 ①高い志として「仏の悟りを開きたいと」日々決意することです。

 ②一日を一生として日々新しく生きることを、日々新生を誓うことです。 

 ③幸福の科学の仏・法・僧の三宝を帰依することです。
  日々、お祈りをすることです。

 ④大川隆法著の著作の普遍的真理の仏法真理を学び、智慧として腑に落とすこと
  です。そして、心にストックしてゆくことです。

 ⑤反省の習慣化です。心の想念帯は日々チリやホコリが穢れとなり、悟りの妨げ
  になりますので、日々、一瞬一瞬に心の想念帯の穢れを発見したら反省するこ
  とです。

  反省できれば、心が湯上がりのように軽くなります。

 ⑥反省しながら、心の引っ掛かりが無くなって、安らいだ心で瞑想禅定すること。
  気分が悪くなったり、集中できないときは、瞑想を解きます。

  私の場合は、仕事の帰りや休暇の時に、平静なる心で集中できる場合は、数時間
  瞑想禅定をします。義務感ではしません。 

608:偽イルミナティ
11/09/20 23:15:19.88 YBAZ2yAF
amaって人が誰かを悟らせたり出来るんなら意味もあるんだろうけど、
それどころか、悟りそのものを説明さえできないんでしょ
スネオ的な悟りとでも言えば良いのか
様は自慢だよね、これ

609:小林 白蓮
11/09/20 23:15:45.10 1/xYtyx4
>>607 続きます。

 ⑦一時間経ちますと、心の内の上澄みの透明で純粋な部分が見えてきたら、透明で
  純粋な部分だけを観て、平静なる心の持続をして行くことになります。

 ⑧凪いだ心の湖面から水鏡の心の湖面になって、心の湖面の底も透き通って
  ゆらぎの無い心境を維持し、心の湖面の底を観てまいります。

 ⑨水鏡の平静なる心の内に光が射して来るのが分かってまいります。

 ⑩心の内の底の奥から、小さな点のような光が射してきて、継続の日々の中で、
  小さな点のような光が、やがて大きな光が射して心の内が真っ暗だったのが
  明るい光に満たされて、指月の教えのごとく、心の内に満月が観えてきますと、
  それが悟りを開いたことになります。

 ⑪そして、霊天上界からの指導が入り、水鏡の透明で揺るがない純粋な無我の
  心境の質が高まれば、心の内の水鏡の底からコンコンと般若の智慧が泉のよう
  にわいてきて、霊天上界の守護霊からインスピレーションが入り、高級霊か
  らの指導が入るようになります。

 ⑫菩薩の登竜門の阿羅漢の悟りを開いたことになります。
  上求菩提の悟りを開いたら、下化衆生の救済にあたります。
  
  阿羅漢の悟りまでは、誰でもなることが可能です。 

610:神も仏も名無しさん
11/09/20 23:31:03.73 DxiecMpB
1を批判する人の殆どがカルト信者である事が見えてくるな。

カルトは神秘体験による悟りの序列を付ける
信者に「あっけなく悟っ」てしまわれるとビジネスとして成り立たないからだ。



611:神も仏も名無しさん
11/09/20 23:59:35.05 DxiecMpB
1さんの方法は神秘体験というファンタジーを追い求める人に取ってはある意味冷や水を浴びせるような所があるかもしれない。

神秘体験もよく観察し
目の前の現実もよく観察してみなさい
それは全て自分の心が生み出しているものである事に気がつくであろう

そう自覚するのがおそらく1さんや仏陀の言う悟りであるからだ



612:神も仏も名無しさん
11/09/21 00:07:01.77 9bZl/sGb
そう、そして「そう気がつくもの」も自分の心が生み出しているもの
だから「思考(とそれが作り出す全て)」が消えて、ただ みた とき>>71、分かる

613:神も仏も名無しさん
11/09/21 00:18:15.54 mPIhvTA9
>>608
悟った人が「悟った」というのは自慢以外の何があるの?
悟ってるんなら、悟ってるって言わなくても
人を導く方法くらい知ってるでしょ。

614:神も仏も名無しさん
11/09/21 00:18:43.69 tjqi+IVv
今、この世界の中でいかに自由に生きるか

神秘体験を求める人は、現実が生きずらかったり苦しいと感じる人が多いのかもしれない
なので「ここではないどこか」を求めるのであろう。
しかし、結局、我々はこの世界で生きて行くしかない。
(もしくは山奥で一生座禅を組んでいきていくかであろう)

だから目の前の世界を知る事は非常に大事なのだ。

勿論、目に見えない世界を知る事も大事であろう

神秘体験も多いに結構だ。

しかし「この世」が見えず、「あの世」しか見えないのであれば
その人は「この世」に置いて盲目である
なのでまず「この世」を見る事が大事。
そしてどちらも幻想であると知るならば
そのような人は自由であろう

カルトの中にはあの世は実在だがこの世は幻と説く場合が多い
そして教祖はあの世を支配する神なのだというような事を言う
そうなると信者は完全に支配されてしまうだろう
しかしそれも心が生み出した幻想なのである
その根拠は信者や教祖がそう思い込んでいる事以外にないからだ


615:神も仏も名無しさん
11/09/21 00:28:05.13 mPIhvTA9
世界を幻想だと見極めたところで
幻想を断ち切らなければ、ずっと幻想の中だ。
課題は、どうやって幻想を打ち破るかだよ。

616:神も仏も名無しさん
11/09/21 00:37:53.44 tjqi+IVv
612
確かに、思考のない世界では、「苦しい」ということがないんだよね
「楽しい」もないけどさ

『案ずるより産むが安し』と言う言葉があるけど

苦悩とは、それがやって来た時にはない。

痛いんだろうなと考えている時は苦悩があるが
痛みを感じている時は痛みがあるだけで
観念化しない限りはそこに苦悩はない

その一瞬、その一瞬の現実の中には苦悩というものはない。
これは竜樹も『中論』の中で強調していたと思う。

「あの人にどう思われただろうか」と思うとき苦悩は生じる
つまり苦悩の正体は自分の「思い」なのである。

ならば心をコントロールすることが出来れば苦悩も消す事が出来る。

ついでに「あの人は俺の事が好きに違いない」と思うと「幸福」を感じるかもしれないが
この幸福感の正体も思考である。
だから思考が変わって「あの人はやっぱり俺が嫌いなんだ」と思うと「苦悩」に変化する可能性がある。
釈迦が「愛は苦痛である」と言うのはこういう事であろう
つまり思考を捨てるならば、苦悩も快楽も消える訳である
そこにあるのは「平安」という境地かもしれない



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