11/09/14 01:18:27.56 YygdFH4b
>>374
これこれこういう方法だと届く、という「正解肢」があると?
その先で得られるのは、「その正解肢に到るために作り出されたもの」
がいざなった「とある一定の形式により導き出されたもの」では?
それは、「悟りが何なのか分からない人」が、「これが悟りです」といわれて、
なぜか(その「分からない人」が)「そうだその通り、それが悟りだ(「悟りが何なのか分からない人」が答えを決めた)」となり
「その悟り」をより深く知識・体験として構築、「学習」をしている図 では?
(「なぜ」そんなことを自分がしているのか(求めているのか)突き詰めて考えてみるといい、と思う)
しかし、悟りとは何なのか「探求」する場合、そうはならない
なぜなら「悟りが何なのか分からない人」は「分からない」から