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☆御本尊に法主の開眼供養は必要か?
結論から言いますと、必要ありません。それをこれから解説していきます。
「仏に三十二相有(いま)す、皆色法なり。最下の千輻輪より、終り無見頂
相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし、作りつべし。
梵音声の一相は、不可見有対色なれば、書くべからず、作るべからず。
仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏
に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥な
り」(木絵二像開眼之事 468ページ)
通解:
(仏には三十二相があり、すべて色法です。一番下の千輻輪相から最後の無
見頂相までの三十一相は、目に見えるので書くこともできるし作ることもできま
す。ただ、梵音声(仏の声)の一相だけは目に見えないものなので書くこともでき
ないし作ることもできません。釈尊滅後には木画の二像(仏像)がありました
が、これらは三十一相だけで梵音声が欠けています。故に仏ではない。また心
法も欠けている。つまり、生身の仏と木画の二像を比較したならば、天地雲泥
の差があるのです。)
読んで分かるとおり、仏像には、梵音声と心法が欠けているので仏になること
ができないということです。だから、開眼供養しなければ、仏像は魔仏になると
いう論理です。上記を踏まえて日顕宗の主張を考えると、日寛上人の御形木
御本尊(創価学会の御本尊)にも梵音声と心法が欠けているということになりま
すが、果たしてそうでしょうか?
(続く)