10/12/06 02:43:38 EIr9pvHA
>>338
『行学絶えなば、仏法はあるべからず』
教学の研鑽や文献の研究も大切だろう。だが、何百年も経た今日ではそれも限界がある
『日蓮が魂は・南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし』
『諸宗は本尊に惑えり』
『教主釈尊の出世の本懐は・人の振る舞いにて候いけるぞ』
つまりは、祈りと祈るべき本尊こそが、日蓮の出世の本懐だと言える
あとのものは、「過ぎたるはなし」の二次的なものだろう
「ひかりもの」については、『神通力は之を用ゆべからず』ということだろう
仏法は生命の道理であって、おとぎ話じゃない
その存在を強調したところで、個人の信仰に何ら資するものではないんだろう
むしろ混乱のもとになるに違いない
しかし、「妙法を行ずる者を諸天は守護する」という現証として、重大なエピソードだ
本尊のない天理教は、何に対して何を祈るのか?
まさに「惑えり」の姿であり、鏡を祭ってみたり、甘露台の周りで踊ってみたり、
一念が定まらない
天理教だけじゃない
教祖の写真、変てこな像、変てこな曼荼羅、ヘビやキツネ、新宗教にはロクな本尊がない
本尊こそは宗教の命だ
これがなければ、ただの道徳研究会になってしまう
偶像崇拝を嫌うのだろうが、日蓮の文字曼荼羅はそんなものじゃない
言葉こそ、文字こそは、真理の究極の媒体だよ
それを声に出して読む、何回も何回も心に染める、それが祈りの力となるんだ
ただの文字ではない
『日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ・信じさせ給え』
の文字なんだよ