10/12/05 01:32:00 m8zHKVnD
>>329
医学技術が病の治癒に入り込んでいる割合は、だんだん増えているように思います。
医者薬で済んでしまうことが多くなったからこそ、信仰の意義というものが病から離れつつあるのではないでしょうか。
宗教組織はその生き残り策として、信仰に別の意義をもたせる。そんな風に感じます。
そして、現代社会では、そのお医者さんにかかる事の出来ない人も数多くいます。
そんな人達が「神様の一事まででみなたすけるで」という現実を現せたら、良いと思いませんか。
>「陽気暮らし」という目的には誰もが賛同しても、アプローチとしてのそれには、?が付く
確固たるアプローチの仕方がいまいち見えないということでしょうけれども、天理教は、元の親神がその道をつけているということを信じる教えです。
とうじんも神のままにされる。天の理に合わなければ身上にて知らされる。特に、ぢば屋敷における理の返しの鮮やかさは・・・
日蓮上人は経の力による解決と、科学的な解決、どちらも現証としてしめされたと思います。
おやさまは、当時の権力によって右往左往されてしまう宗教の現実というものを、元の親として見つめ、問答をしかけたりもされています。
>両者の履歴や文献を比較すれば分かることだ
日蓮上人が、人類救済の祖にふさわしいと考える論拠としての文献を何か示してもらえませんか。
>レトリック
道に飾りはいらんと神様は仰いますから、ハード的にもソフト的にも飾りというものはだんだんと削ぎ落とされていくと思います。
ソフト的な飾りに対しては、3原典とよばれる親神様直筆のおふでさき、口述筆記のおさしづ、みかぐらうた、これらを真におくことで対処できます。
>嘘に嘘を重ねてきた結果、何が真実なのか分からなくなっている
真実の心とは人をたすける心であり、真実であれば神は受け取り、与え(利益)としての神の働きがあります。
神の働きを証拠として信心していくのが、本来の姿なのでしょうね。