10/08/09 13:47:13 rb3GDoAN
帰ってから、ぼんやり考えた。
一体、今迄、どれ位、お布施してきただろう。
植福菩薩にはなっていないものの、同じくらい納めているのではないかと思った。
(いや、足りてないかもしれない。)
私の家にはご本尊が一通り揃っており、主だった植福は大抵参加してきた。
精舎建立植福も、経典も一年で100万近く納めた年もあった、映画のチケットも束で頂いた。
霊言全集も、頂ける所まで頂いた。支部精舎を支える資金になると言われたのだ。頂かないわけにはいかなかった。
この前(当時)の那須のご本尊も、全部、やった。
別にさして豊かなわけではなかった。
仏のためなのだから、名誉なことだと思っていた。
布施の機会を頂ける事は有難いことだと思って、ぎりぎりまで頑張ってきたのだ。
経典や布教菩薩の袈裟やらも、何本も頂いた。
酷い格好をしていると、よく笑われた。
支部で、社会人だろうとたしなめられることもあった。
それでも、一円でも多くお布施するべきだ、と思っていた。
金額のことを言っているのではない。
それが、ちゃんと(先生が言っていたように、)金額以上に、神と神の造られた世界の役に立っているのであれば、別にいいと私は思う。
(但し、正しい手続きを踏んで、である)
しかし、精舎のスタッフは、「布施の重み」(お金の重み、ではない)など、これぽっちもわかってはいなかった。(ように私には見えた。)
私は学生の時に入会したので、社会人になってこの方、全てこのために生きてきたようなものだった。
伝道して、又は、噂が広まって、仕事がくびになったことも何度かあった。
その度に、生まれてきたのは、この使命のためなのだから、こんなことで負けてたまるか、と思って、凌いできたのだ。
自分の人生を犠牲にしてでも、守らないといけないものがあると思っていた。
それなのに、あの精舎で見た職員の姿、あれは、一体、何だったのだ・・
考えるほど、頭が混乱していった。