10/08/03 17:02:02 +PHeEV53
律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづき捧げられる同じようないけにえによっても、
御前に近づいて来る者たちを、完全な者にすることはできないのです。 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度清められた以上、もはや罪の自覚がなくなるのですから、
捧げ物をすることが止んだはずではありませんか。 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのです。
なぜなら、雄牛や、やぎなどの血は、罪を除き去ることができないからです。 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われました、
「あなたは、いけにえや捧げ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さいました。 あなたは燔祭や罪祭を好まれませんでした。 その時、わたしは言った、
『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御心を行うためにまいりました』」。
ここで、初めに、「あなたは、いけにえと捧げ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従って捧げられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、 次に、
「見よ、わたしは御心を行うためにまいりました」とあります。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのです。
この御心に従い、ただ一度イエス・キリストのからだが捧げられたことによって、わたしたちは聖なる者とされているのです。
こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえを捧げるのですが、それらは決して罪を除き去ることはできません。
しかし、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえを捧げられた後、神の右に座し、 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられます。
彼は一つの捧げ物によって、清められた者たちを永遠に完全な者とされたのです。(ヘブル人への手紙10:8-14)