11/07/20 12:01:22.74 akXUaC1W
>>356
聖書(みことば)は、個々全体にわたり、最も子細な部分と極小の一点に
いたるまで、霊的、天的な意味が含まれている。(みことば)は主のもの、
主が記されたものと考えただけでも、天界・教会・信仰に関する事柄を、
内に含んでいると認めてもいいはずだ。そうでなければ、主の(みことば)
と呼ばれたり、その中に(いのち)があるとは言えない。
(いのち)は(いのち)ある何かに由来する。すなわち個々全体が(いのち)
そのものである主を指し示している。内的に主を指し示しているのでなければ
生きているとは言えない。
(みことば)の語意に、主が内在しておられるとも言えない。つまり、それなり
に主を指し示しているとも、(みことば)が神聖であるとも言えない。
(みことば)に、このような(いのち)がなければ、文字だけの(みことば)は
死んでいる。キリスト教世界では知られているが、(みことば)は、外部と内部
からなる人間とよく似ている。
内部から分離した外部、すなわち肉体は、そのままでは死んでいる。生きているの
は内部で、内部が外部を生かしている。その内部人間とは霊魂を指しており、
(みことば)を文字のいみだけから見るなら、霊魂のない肉体のようになる。
主も言われているように、主の(みことば)には、天の国の秘密が隠されている。
他の書物とちがって、聖書が聖書であるのは、まさにこの点にある。