11/07/19 13:34:20.97 wN8uJJjE
>>321
>神は何のために「善悪を知る木」をエデンの園に置いたのでしょうか。
創世記第3章は、最古代教会の第三番目の状態がテーマになります。
ここで人が「エゴ」を恋い憧れ、愛するまでになります。
それが前章に記されている、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者
を造ろう。」(2.18)という表現になります。
「独りでいる」とは、主に導かれることに満足せず、自分とこの世によって
導かれる願望を言います。「かれのためにふさわしい助け手」とは、人のエゴ
のことで、いわゆる「女を建てるためのあばら骨」と後述されます。
そうして、感覚で把握するもの、自己愛とエゴで把握するもの以外は、今や
何も信じなくなりました。「蛇」は感覚を表象し、「女」は自己愛すなわちエゴ
の愛を表象し、「男」は合理性を表象します。
こうして、蛇すなわち感覚は、女すなわち自己愛のエゴを説得して、主への
信仰にかんする事柄を調べるように促します。それが「知識の木から取って
食べる」の意味です。「男もとって食べた。」(3.6)は、人の合理性もそれに
同意したことを意味します。
ところがかれらは、悪に踏み込んだと感じとりました。それは感知力の残り
を示します。同時に、「かれらの目が開けた」、「神の音を聞いた」
「イチジクの葉をつづり合わせて腰に巻いた」とあるとおり、かれらは
恥ずかしくなり、「園の木の中に隠れた」「悪を認めて告白した」などによって、
自然的な善が残っていたことを知ります。