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碧巌録 第二則 【趙州揀擇】 ぢょうしゅうけんじゃく
趙州和尚が衆に示していわく
「道に至るのは格別難しいことではありません、唯だあれこれ選ぶことを嫌うだけなのです (唯嫌揀擇)、と。
わずかでもこころに文章や言葉が (纔有語言)
有れば、是れを揀擇といい、是れは明白とも言います。
わたしは明白という場所にはいません (老僧不在明白裏)、
是れはあなたたちも何かを守り惜しむことは無い (是汝還護惜也無) ということなのです。」
時にひとりの僧がいて趙州に質問します
「すでに明白という場所にいないのならば (既不在明白裏)、その明白ではない何者かをどうやって守り惜しむというのでしょう? (護惜箇什麼) 」
趙州いわく 「わたしもまた知りません 」
僧がいわく 「和尚がそれを知らないのならば、どんなわけで明白の場所にいないとわかるのでしょう ? (爲什麼却道不在明白裏) 」
趙州いわく 「その事を問うのは即ちそれを会得していることなのですよ (問事即得)、だから礼拝し終わったら退がりなさい (禮拜了退) 」
イチゴには・・・イチゴジャムをかけると始まりと終わりを一度に味わうと言う自論を持っているのだが・・・
さて、
五月の或る日のこと、さわやかな風が吹き渡る中、どこまでも長く延びている農道で甚平は、道路の端をリヤカーひく人のよさそうなおじいさんに出会った。
「おじいさん。何を運んでるの?」
「これかい?これは、牛の糞だよ」
「それ、どうするの?」
「これから牛の糞を畑まで運んで、それからイチゴの上ににかけるんだよ」
「ええっ!おじいさん、いいから、そんな事しないで、うちへおいでよ」
「ん?、どうしたんだい?」
「おじいさん、かわいそうに。イチゴを食べるとき、うちじゃぁ イチゴにミルクをかけるんだよ」