09/11/17 23:15:54 SIdZnba6
僧侶が葬儀に関与するようになったのは、およその時代としては平安末位からです。
民間にはそれ以前に各集落には居住をして弔いに関わり生計を立てていた人たちが居ました。
この人たちの子孫が阿弥陀仏の名号を唱えて弔いをし、時代と地域の
成り行きで浄土信仰や阿弥陀信仰をするように成り、ついで法体僧職の姿と正式の僧侶になりました。
この人たちは世襲の身分ですから妻帯は当然です。
(故に親鸞の肉食妻帯宣言はこの身分の人たちを摂取するための方便でもありました。)
このような人たちをを世間は<聖 ひじり 阿彌>と呼び、禅や天台など一般僧侶と区別したのです。
地域に根ざした古い真宗系統の寺院は最初から民衆の葬儀と密接なつながりがあります。
是をおろそかにしては地域寺院存在の意味がなくなるのが真実です。
又旧来の真言宗の教義から生まれた覚鑁上人の一派は(真言念仏、高野聖 )の
出自が確認できてます。
覚鑁上人はなかなかユニークな立場の人で、真言宗が葬儀のときに行う儀式の制定を
残しています。
それ以前は真言宗には一定のきちんとした式次第が無かったらしいのです。
上記文章資料は 故五来重博士(角川選書)からのものです。
長々とうろ覚えの引用をしたのは、今の日本の各宗派が<安心>を説く親鸞、法然の
教義になびいていると言うことを示したかったからです。
日本仏教の根本の善悪は問えませんが、布教体質は信徒には来世成仏を説く、つまり
死後成仏、往生成仏を奨めるに過ぎない仏教になりました。
是では 現世に生きる我々の要求に答える僧侶は出ては来られないと思います。
せめて僧侶が「死後 人の意識はどうなるのか?」是に明確に答える義務は、各檀家に
対しては在ろうかとは思います。
是を超えなければ、まず先行き檀家の消滅から寺院の経営は成り立たなくなります。
勝手に散骨する時代が始まりましたから誰も止められません。