09/07/23 08:16:28 5bunmz0i
>>105
蓮如上人の書かれた『正信偈大意』には、
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」というは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず
化土懈慢国に生ずるなり、また専修正行になりきわまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽に
生ずべしとなり。これすなわち、専雑二修の浅深を判じたまえるこころなり。『讃』にいわく、「報の浄土の
往生はおおからずとぞあらわせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとおしえたり」といえるこころなり。
と仰っています。
また
蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」と仰り、表紙が何度も破れるまで読まれた『安心決定鈔』には、
五百の長者の子は、臨終に仏名をとなえたりしかども、往生せざりしように、臨終にこえをいだすとも、
帰命の信心おこらざらんものは、人天に生ずべしと、『守護国界経』にみえたり。
とあります。臨終に念仏を称えたけれども、信心決定できなかった人は、人間界・天井界に生ずとあり、
蓮如上人はこれを否定されていません。
全ての人が無間地獄に堕ちるとは仰っていないことになります。