11/01/29 15:55:53 4jlD67wH
悟りを開いた後の日常はスゴイ。全部見える。何事にもとらわれず、静かな気持ちの中で、人の優しさや、悲しさが見え全ての人に優しくなれる。
まるで人生が、一度読み終わった本をもう一度読み直しているような感覚になる。
798:神も仏も名無しさん
11/01/30 18:19:01 4TR/C5eE
>>797
どうやって悟ったんですか、ご教示お願いします
799:神も仏も名無しさん
11/01/31 12:10:11 msDQNoQj
>>798
ノイローゼや被害妄想におちいりながらも自分を責め続け醜い感情の原因を突き詰め続けました。
人間が日常で忘れていられるからこそ正気でいられる事についても目をそらさずに突き詰め続けました。
途中でかなり危険な精神状態になり自殺も考えましたし、気づいてはいけない事に気づいてしまったような感覚にもなりました。
800:神も仏も名無しさん
11/01/31 12:16:03 Y74u27G+
>>799
IDにDQNが入っているのは偶然でしょうか
801:神も仏も名無しさん
11/01/31 12:26:36 msDQNoQj
>>800
偶然ではなく必然ですwww
802:神も仏も名無しさん
11/02/01 23:36:26 zI5LHXRu
猫や犬に意識はあるのだろうか?
たぶん鏡に写った自分を見て、これを自分だと認識出来るなら(鏡映認知能力)、
それをもって意識の存在、少なくともその発露とみなして構わない。
というのは、それは自分の存在を客観視出来ているということに他ならず、
つまり自分の中の客観的認識において他者と自分の姿を並置し比較することが出来ているということであり、
そこで初めて自分が何者であるかという自己範囲の確定=自己定義が可能になり、
結果、自我意識(自意識)にも目覚めうるからである。なおかつこれは基本的に脳機能の問題なので、
脳においてそれが可能であるならば、その生物には意識があるに違いない。
しかしてそのような意味での意識がないとしても、尚すべての生物には能動的な意思の存在を見て取れる。
ただ彼らには「自分」という認識はない。彼らが認識しているのは「他者」存在だけであり、
その「他者」に向かってああしたい、こうしようという動機のみがある。そして動機の主体は存在しない。
そもそも主体である自己存在が認識されていないので、自分が何者であるかということは無論、
自分という意識さえない。その意味でこの動機ないし意思は主体を持った意識成り得ず、
どこまでも盲目的なのである。
つまり他者が存在していることを知るためには、外にあるそれをそのまま観ればそれで済んでいる。
しかし自身が存在していることを知るためには、その姿を鏡(外部)に投影し、外部に投影されたそれと
自分が同一であると認識する必要がある。言い換えるなら、もともとここにある自分を、この自分と
(鏡に写る)あの自分に分裂させ、その上であの自分がこの自分と同じであることを理解することで、
そこからようやく自我意識が始まるのである。
803:神も仏も名無しさん
11/02/01 23:37:29 zI5LHXRu
これは、人間が本来一つしかない自分を、便宜的方便的に二つに分裂させることで、初めて自身を
客体として認知できているということなのだが、であるなら、自分という意識、自我意識の成立には
常に内にある見えない自分と外に見える自分という二つの人格を必要としているのである。
そしておそらくは、この内なる自分、これをこそ人は未だ自覚せざる動機の主体ないし自由意志の
すべての源泉=霊性、神性と呼び、そこに超越者たる神の存在をも観ているのである。
つまり自我意識の中に、(自覚し得ない)神である自分と(なお自覚しうる)人間である自分が常に
内包されている。そして神である自分の存在に気づくことこそが、一つには通常盲目的でしかない
自我意識を超克する=悟りという事でもあるのだろう。
しかして鏡に映った自分、あるいは他者が眺めている自分ではない、そのようなもう一つの神である
自分=見えざる自分を自分は如何に認識し見つめることができるか、ということは、実際にとても
難しい問題である。つまり禅問答というやつなのだ。答えから言えば、目を閉じ耳を塞ぎ物言わず、
その状態の自分を何者だとも考えずにただ無心に感じ従っている状態こそが、それだということになる。
まあわかったようなわからないような話であろう。
実際見えぬもの、最も見えにくい物を観るというのは難しい。まただからこそ、人は目に見えぬはず、
本来形持たぬはずの神仏の姿も何らかの形で外部に具象化しようとするのだ。
あれは全て、本当ならどこまでも表しようもない自分自身を方便として表現していることに他ならない。
それを知らないのは、神や霊が本当に外部に実在していると思い込むような、どうしようもない馬鹿どもだけである。
そういう奴らは、たとえ100万遍生まれ変わっても、ほぼ永久に馬鹿のままで地べたをグルグルしているしかない。
仏曰く縁なき衆生は救い難し。
804:神も仏も名無しさん
11/02/03 19:58:08 n4Hw6bgX
『チュートンの民の神オーディンは、二羽のカラスを飼っていた。一羽の名は「思考」、もう一羽は「記憶」。
オーディンは毎朝明け方にカラスたちを空に放ち、下界で何が起きているかを偵察させた。夜になると
カラスたちはねぐらに帰ってきて、夜通し、見たもの聞いたものすべてをオーディンに詳しく話した。
ある日オーディンの頭を疑問がよぎった。一方のカラスしか戻らなかったらどうなるであろうか。
生きていくのに必要なのはどちらのカラスだろうか。そしてオーディンはさとった。
「思考」がいなくとも生きていけるが、「記憶」がいなくては生きてはいけないということを。
(奪われた記憶/ジョナサン・コット/求龍堂P3から引用)
オーディンが「生きてはいけない」という意味は、世界が展開していかない位の意味だろう。
世界は陰から始まり陽の極点に至り衰微をスタートさせ、ふたたび陰窮(きわ)まるという記憶を辿って展開する。
これは記憶という名の世界ドラマのシナリオである。
「思考」なしとは、想念のないこと。想念停止である。世界樹「建木」のある場所のことである。
そこには「今ここ」しかない。メンタル体に流れるのが想念。時間、空間、物質でもって、世界は変転するが、
想念停止にあっては、今ここしかないから、時間と空間がなく、物質しかない。
そこでは個、個人が残っているのかどうかすらも怪しい。個の危機が翳る。
そこでは人間を問題にしない、人間ドラマの存続をそもそも相手にしていない。石ころの心である。
これに対して「記憶」なし、と言う場合、記憶には個の響きがある。
記憶という場合には、人間としての個が残っている。人間なかりせば、世界のドラマは展開しない。
思考なしでも、記憶なしでも世界は展開しがたい。
それでも主神オーディンは、個たる人間の香気のする記憶の方を選んだ。
思考は神の領分、記憶は人の領分というのがあるのではないか。
805:神も仏も名無しさん
11/02/03 23:24:01 o6EqKtUE
思考が先になければ記憶も無いのですよ。
その思考さえも外部からのインプットされた情報により構成されたもの。
純粋な内部の記憶はありません。
生物的恐怖でさえ 遺伝子に蓄えられた先祖の経験にすぎません。
806:神も仏も名無しさん
11/02/03 23:32:55 o6EqKtUE
内側に真我があるというのが無明。
何度でも母体に入る馬鹿者のことである。
807:神も仏も名無しさん
11/02/05 17:30:49 koiIRKg1
聖書の出エジプト記3-14~16
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、
わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。
神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい
『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、
わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。
これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。
あなたは行って、イスラエルの長老たちを集めて言いなさい、
『あなたがたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である主は、
わたしに現れて言われました、「わたしはあなたがたを顧み、あなたがたが
エジプトでされている事を確かに見た。』
神はモーセのことを記憶していたが、モーセは神の名を記憶していなかったのだ。
おまけに「有って有る者」だから、アートマン側の有として神は現れた。
本来のブラフマン=無の側では現れなかった。これは、記憶の中の神として出現するには、
当然有の側、アートマンの側の方が容易であろうとは理解できる。
更に言えば、有の側だけでは、神の姿の半分でしかない。
ただし聖書の世界観が不十分ということではない、創世記にちゃんと『地は形なく、むなしく、
やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。』とあるから。
ここは、神は有半分の姿で現れたとみるのだろう。
だから記憶、体験が問題となる。思い出すためには、形を取った方が思い出しやすいとみる。
だからといって体験とは言えない体験が思い出しにくいとも思えないのだが。
よって、神を思い出すことに力点のある宗教は、形、観想にアクセントが置かれることになる。
意識と無意識で言えば、意識の側により圧力のかかる修行形態の宗教となるのだろう。
808:さんちゅ
11/02/21 17:45:31.33 shC+NfXf
悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、
いまの自分以外の何者にもなる必要もないと理解することである。
809:さんちゅ
11/02/21 17:57:17.18 shC+NfXf
悟りとは、経験していないことを知ること、
それによって経験するということだ。
知ることによって経験への扉が開かれる。
逆もまた真である。
810:さんちゅ
11/02/21 17:59:54.57 shC+NfXf
悟りとは情熱を否定することではない。
結果への執着を否定することだ。
したがって悟りとは結果を放棄することである。
決して情熱を放棄することではない。
811:神も仏も名無しさん
11/02/23 12:39:43.62 3+2DDrzi
「私は『結果』だけを求めてはいない
『結果』だけを求めていると人は近道をしたがるものだ・・・
近道した時 真実を見失うかもしれない
やる気もしたいに失せていく
大切なのは『真実に向かおうとする意思』だと思っている
向かおうとする意思さえあれば
たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?
向かっているわけだからな・・・・・・ 違うかい?」
812:神も仏も名無しさん
11/02/27 04:57:22.89 29TmfiZW
天上天下唯我独尊
悟りを開く人は元祖様みたく32の特徴を持っている
パーマでいびつな頭、白髪の生えたほくろ、でかい耳、扁平足など
きめえ…www
813:神も仏も名無しさん
11/02/27 05:15:23.61 gaUEPwhn
主観の徹底による超客観への到達
未来と過去の連関に必然を見る
814:神も仏も名無しさん
11/03/02 21:44:16.70 io9erGbv
便をトイレに排泄中に、豁然大悟しちゃった。
みなさんの質問も受け付けます☆
815:神も仏も名無しさん
11/03/02 22:07:39.17 mFrhGF2a
>>814
次のロト6の1等の当選番号を教えて下さい。
816:神も仏も名無しさん
11/03/04 18:04:17.69 WU2WgA/1
>>814
便がどんなかんじで流れたのか教えて下さい。
817:神も仏も名無しさん
11/03/05 14:37:15.46 FKSvMedw
豁然大悟しても統失、うつ病が治るわけではない。