09/01/04 03:14:15 SzBPO2CI
>>64
真の平等とは個々人の生命のど真ん中に宇宙の本体と連結された神の存在がある。
この一つの神の心から分かれ、無数に派生している生命が人間であるゆえに人間を神の子というわけです。
従って我々個性を有した人間生命の源を辿っていけば、共通普遍の神の存在に行き着くわけです。
全く共通同一の神につながっているゆえに、神においてのみ人類は永遠に平等と言えるわけです。
実相の平等が真の平等です。これを現象の平等にすりかえているのが現代です。
つまり神が存在しないならば、人類には共通普遍の存在、平等はないということです。
これにおいてのみ平等だからです。
神の存在を認めない方は人類の共通性を否定している方と言えます。
共通性を否定しているわけですから、善や正義の意味はその方にはありません。
正義は万人に普遍妥当するから人は求めるのです。
神を否定したり、無神論だと堂々と言われる方の主張する正義や善はインチキだということです。
神を否定した場合、我々人類からその共通性が失われるからです。
人格を捉えても個性ゆえに平等はないし、肉体を捉えても同一の顔や肉体などはない。
物心は神の差別相です。
そしてこの平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具していると主張しているのが西田哲学です。
この差別も現代では偽者の差別を差別と言っている。
平等も差別ももともと現代では偽者の平等と差別になっておりますので、
中々この西田哲学の意味は理解しづらいかもしれませんが、
たとえば平等も現象の平等にすりかえておりますが、差別も多くは現象の差別にすりかえて認識しているのです。