カトリック教会の典礼を考える 12at PSYカトリック教会の典礼を考える 12 - 暇つぶし2ch■コピペモード□スレを通常表示□オプションモード□このスレッドのURL■項目テキスト600:神も仏も名無しさん 10/09/23 17:05:25 rT5IfOvm 創世記の比喩的な記述と、 科学的事実に反するという指摘への反論 創世記の記述が科学的事実に基づいた表現ならば、 それは美しくない。 創世記は文学的な表現のほうが荘厳である。 たとえば、創世記の第一章が、 「宇宙の始まりは、インフレーションからビッグバンが起きて~省略~」 などという表現だったならば、 神聖さが欠如した俗っぽい文章に堕してしまうのです。 聖書の著者が創造主である神だというならば、 文学的な美しい文章表現のほうが似合います。 よって、創世記は比喩的な表現でも、 科学的事実と矛盾しているように見えても、 問題ありません。 神による創造の御業は、 美しい表現で記述されるべきなのです。 創世記が学術的な表現では、 聖書の神聖さが損なわれてしまいます。 聖書の御言葉と学問は別物です。 よって、科学的手法による創世記の分析は無意味です。 601:神も仏も名無しさん 10/09/23 17:08:38 rT5IfOvm 永遠なる神の超越性 超越者は時間の外側に在る。 新約聖書 「終末の日を気にすることなどない。 その時は誰も知らない。御子さえも知らない。 ただ、御父だけがご存知である。」 時間の流れという概念は、被造物のほうから見た 物事における主観的な順序であり、 初めが無く、終わりも無い神にはございません。 なぜなら、時間さえも創造された被造物だからです。 わかりやすく喩えましょう。 扇子を逆さまにして見ます。 http://avant.mo-blog.jp/photos/uncategorized/noda001.jpg 柄である要(かなめ)の部分を神と見立てます。 弧を描いてる天(てん)のカーブを時間の流れとし、 天の両端を創造の御業である天地開闢から 御国の完成である世の終わりと見立てます。 http://avant.mo-blog.jp/photos/uncategorized/noda001.jpg どの時間軸(扇子のカーブ)でも、 神からの視点では、変わることなく御身が中心です。 これが神の御名「私は在る」(YHWH)の超越性です。 神は時間さえも超越している唯一の永遠者(存在する者)なのです。 宇宙を創造するほどの御方です。 不可能は無いでしょう。 次ページ最新レス表示レスジャンプ類似スレ一覧スレッドの検索話題のニュースおまかせリストオプションしおりを挟むスレッドに書込スレッドの一覧暇つぶし2ch