10/08/19 23:16:45 JmHeFhwD
古神道では、神には多面性があり、その人の心境や意識レベルに応じて、それに対応した神が
感応するとしている。
西洋の宗教の多くは、人間は神から造られた物とする。これを創造神観という。その考え方でいくと、
人間は永遠に神には成れない。というのも、そこには造物主と被造物という分離があるからである。
近年様々な終末論が流行しているが、その根本原因は、この「神と人の乖離思想」にある。
神が造ったのだから、人類の多くは堕落し、“不良品”と化したので、造物主から壊される、つまり
滅ぼされるという発想になるのだ。これでは安心を与えるどころか、不安が頭をもたげてしまう。
また、終末を唱えるカルト宗教の神はよく怒り、「神に従う善なる人間」のことは助けるが、
従わない悪なる人間は滅ぼすという性格がある。愛の神と言いながら、悔い改めない人類に対して、
結局は死んでもらう神となっているのである。宗教団体の中には、「人間は神の道具だ」と考えている
ところさえある。道具は、壊れたり不要になったら捨てられる。そういう意識で居ると、人間を道具として
使うような神霊が感応してくるのである。
「神が人間を作ったのだから、自分達を助けるのが当たり前だ」こう考える人も居るだろう。
この様な自己本位の考えの人には、あたかも鏡のように自己本位の神が顕れるのである。
物事には必ず裏表がある。「この願いを叶えたら、あれを差し上げます」 という贖いの宗教だと、
現世利益はあるが、その見返りも要求する神と波長が合ってしまうのだ。同様に、ある人が神を
「法則の神」として設定すると、その人には情状酌量の無い法則の神として顕れ、法則に合わない
人を冷酷に切り捨てるように成ってしまう。無神論者には、無神論という“神”が顕れ、「神も仏も無い」
という苦しい事態が発生する。近代人の多くは、自らその状況を作り出して、苦しんでいると言えよう。
452:神も仏も名無しさん
10/08/19 23:17:33 JmHeFhwD
神道では、人間は神の子供として生まれたとする。そして、“生んだ”ということは、よく考えれば、
人間の根源的な親、大先祖は神という事になる。つまり、自分と親、先祖、神は太い線で繋がって
いる事になる。そう考えると神は遥か遠い存在ではなく、もっと身近な存在になる。それが親神という
発想になってくるわけだ。“生まれた”とすると、神と人間は基本的には同質になるから、子供が大人に
なるのと同様に、人間が神に成るのも当たり前ということになる。いや、人間はもともと神なのであり、
それを忘れているだけなのだ。
神と人間を親子関係と捉えると、親子としての温かい交流も生まれてくる。そういう意味では、
親である神は子である人間を、助け育み守ってくれるし、それに人間が感謝するために祭りを行う
という構図になる。「孝行と神道は同一線上にある」 ということになる。
多くの宗教の場合、家族とのしがらみを離れ、神と自分の繋がりという個人主義である。一方、
神道では家族主義を採っている。それも「神人同質」という視点から、神→先祖→親→自分→子孫
という超大家族主義なのである。つまり、宗教と神道では、ベクトルが逆を向いているのだ。
453:神も仏も名無しさん
10/08/29 00:39:30 RUB1EK5N
>>451>>452
御説ごもっとも
より勉強したいので出典をご教示願えまいか