10/12/04 21:08:24 dLuZhUHA0
>>862はID:HqAijjjLPと全く同じで、
どっちに振れてるかで「結局何かを信仰していたいだけ」の単なる信仰対象の違いでしかない。
信仰対象が思考でろうが、行動や努力に変わろうが、
どちらも等しく「同条件であれば誰でも例外なく当てはまる科学的に実証された法則性など無い」のが事実。
(勿論俺が知らないだけと言う可能性までは否定しないが、
少なくとも結論先にありきの恣意的なサンプリング以外、俺はそんな実証データなど知らない)
行動・努力指向が思考派をなじったって、所詮オウム信者が創価信者をなじってるようなもん。
どっちも同じく法則性なんて無いのだから、自分が糾弾してる事が全部自分にも当てはまるのに...
自分じゃその事に気づけないから、蒙昧っぷりを晒す事になる。
結果こそ全ての人も居れば、特定のプロセス(苦労したとか)に共感や感動する人も居て、
それ自体に目的意識や価値意識を持つ人にとっては意義があるし、努力する事自体を否定はしないが、
それはあくまで個人の価値観の問題であって、
現実として結果に結びつく法則性とは全く関係無い。
努力した(と自認している)人は「その結果が努力によって報われたと思いたい」だけの事。
しかし現実的には本人の努力も含めた様々な要素が絡み合って「偶然」その結果に至る。
そもそも「だったら成否を分つものって一体なんだ?」と言う根源を特定しようと言う考えが間違いの始まり。
その考えを捨てないと、永遠に「努力と結果は実際に比例してない。努力じゃない、思考だ」
「何もしないで叶うとかアホか、行動や努力は必須だろ」と無限ループ。
どっちもどっちで、
こと「成功した」「願いが叶った」と言う結果に対して、
「~をしたから」と言うのが等号で結ばれる様な法則など存在しない。
絶対的な法則が存在しないからこそ「自由な解釈の余地」があり、
それぞれ意味を求めて「発明」し、それぞれに綻びがある。
その事が「法則など無い」事を証明してる。