10/09/18 22:02:57 BtharCAn0
松重氏の証言は必ずしも一貫しているわけではなく、語った時と場所
によって微妙に変化している。他の証言や報道に影響されたものと見
られ、本人に明確な記憶があるとは言えないようだ。
「御幸橋の上で、魂のぬけたような人々に、ひとりの巡査が何の油か
分からないが、一斗缶をぶちぬいて火傷に油をぬってやっていた。
(中略)頭に仮ホータイをした区役所の人らしいのが、罹災証明書を
書いているのは専売局電停前である。」
(弘文堂新社「ヒロシマ二十年」1965)
「二人の警察官が、一斗缶をぶちぬいて、子どもたちの背中に食用油
を塗ってやっていました。(中略)御幸橋から少し下がった皆実町三
丁目の道路脇で、取材で面識のある須澤宇品警察署長の指揮で、被災者
への罹災証明書の発行が行なわれていた。須澤署長と、この日の惨状の
凄まじさを話し合いながら、この場を撮影した。」
(NHK出版編「ヒロシマはどう記録されたか」2003)
「御幸橋西詰めの巡査派出所で二人の軍人が食用油を塗って応急手当を
していた。(中略)夕方5時ごろ、皆実町で警察官が罹災証明を発行して
いる光景の計5枚の撮影に終った。」
(広島原爆被災撮影者の会編「被爆の遺言」初版1985 改訂版1994)