10/10/02 02:20:57 y4gVSNLu0
>>146
いろいろとお詳しいようで。俺は中国考古学が専門なので、概論しか説明できないのですが・・・
弥生時代において、大陸・半島との交流の中心を担ったのは北部九州の玄界灘沿岸の伊都国、奴国などを中心とした
勢力です。弥生中期以降、壱岐原の辻近辺を中心として、大陸との活発な交易があったことは遺物の出土状況から明らか
です。この当時は日本海航路の利用が多く、山陰や越方面にまで大陸の文物が流れていた形跡があります。
伊都国からは中国王朝漢の冊封を受けいていたのではないかと考えられる遺物が出土しています。しかし、おそらく2世紀
後半頃に一大転機があったと考えられます。それは遼東公孫氏の台頭です。画文帯神獣鏡という鏡がありますが、これは
異論もありますが公孫氏時代のものとする考え方が主流です。この鏡の出土状況から、移入の経路は北部九州を経由し
て畿内へという流れです。また、その直後に近畿発祥である庄内土器が北部九州に流れ込むという状況も見て取ることが
できます。
これらのことから、卑弥呼共立のあった2世紀後半に、何らかの理由で畿内を中心とする勢力が北部九州から大陸との交易
ルートを収奪したと見る考え方が多くなってきています。ここで瀬戸内航路が大陸へと繋がったのです。