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『カラマーゾフの兄弟』の中で無心論者である次兄イヴァンに、ドストエフスキーは
このように言わせています。「王国の到来によって殺した方も殺された方も和解できる日が
来る。しかし虐げられた子供の救済をキリスト教は説明していない」と。し
かし結末は無神論と合理主義者であるイヴァンの悲惨な末路と、それに対する
三男アリョーシャのキリスト教信仰の勝利で終ります。無神論のイヴァンと破滅と
信仰者アリョーシャの人生における勝利とを対比させることで、社会主義に対する
キリスト教信仰の絶対性を打ち出していると見ることができます。また穿った見方
をすれば、次兄の言葉には、改宗以前の社会主義者であったドストエフスキーの思想
や考えが反映されているのかもしれません。また彼はロシア正教の熱心な信徒では
ありましたが、ローマ教皇を頂点とするローマ・カトリック教会には強い憎しみを抱
いていました。それは絶対的な権威と財力という「力」をもって世界に布教していこう
とする当時のローマ・カトリックの「強権」に対する反感があったといわれています。
執筆活動のごく初期(『白夜』参照)から虐げられている人々や子供たちに深い愛情を
注いできたドストエフスキーにとって、力を背景に弱者へのまなざしを軽視した
(と彼には見えたのかもしれません)当時のローマ・カトリックへの反発が表れた言葉
ととるのは、少し穿ちすぎでしょうか。また、神学的にも現実的にも、救いの対象を
大人中心に捉えていた(と彼が感じていたのかもしれません)ことへの疑問も、この
イヴァンの言葉に仮託されているのかもしれません。以上、とりとめもない解釈を
ご披露して恥ずかしく思っております。最初にも述べましたが、あくまで「私見」
ということでご理解くださればと存じます。
2010年8月4日
カトリック中央協議会・広報