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一階から二階への階段を上っているときも、ずっと耳をそばだてていた。新川が、
この病院に勤めるようになって五年がたっていたが、今まで泥棒が入ったことや、
怪しい人間が病院に入ったことなど一度も無い。最寄の中央線の高円寺駅からも
離れた住宅街にあること、患者は地元の人間ばかりというのもあったのだろう。
それでも……新川は思い出す。一ヶ月ぐらい前に精神科に通っている、患者が大暴
れした。新川が夕方の勤務のために警備室に来て着替えをしようかというとき病院内
に響き渡る怒鳴り声がしたのだ。それから看護婦が駆けつける足音がそれに続き
三十分後にはパトカーと警察官が暴れた患者の手をとりパトカーに乗せていった。
次の日、看護婦に聞いたところ薬を変える変えないで揉めたらしい。「誰も怪我が無くて
よかった」看護婦は言った。
階段を上りきって二階のロビーに足を入れたときに異臭がした。生臭い匂いだ。新川
は腋の下に冷やりとした汗の予感を感じる。帽子をかぶり直し懐中電灯を強く握り締めた。
「この懐中電灯は、いざとなったら武器になるようにとても硬い金属でできているんですよ」入社
したばかりのとき上司が言った。「でもこれは使わないでください」上司は続ける。
新川は曖昧に頷く。
ロビーのあちらこちら、外科診察室に続く廊下、西側の内科診察室に続く廊下に明かりを
あててみたが何も怪しい感じはなかった。新川は。これが何の匂いか考え続けていた。
一番に考えられるのは腐った匂いだ。病院では大便と薬品の匂い。そして食事の時間に
なると食べ物の匂いが強くなる。その嗅ぎなれたどの匂いとも違った。夏の生ごみの匂い
のような気もしたがそれとも違う。患者の誰かが家庭用の生ごみをどこかに捨てたんだろうか?
新川は、あのつかまった精神科の患者の顔を思い出しながら考える。
あの患者は何事も無かったかのように、今も通院している。感じのよい男の子なのに
何であんなことをしたのだろう?