10/08/24 21:45:45 MfBInAdB0
ただいま~、デビル帰ったよ~☆
>>399
人が神仏の前に詣でる時、感謝の場合もあるけど、おおよそは何らかの願いを持っているわ
そして手を合わせて祈る
この時、口にしているのは真言であっても、人の思いは自分の願いにある
けれど、真言宗に於いては、真言は仏の言葉であるとされている
それは、嘗て仏が表わした言葉という意味だけではなく、仏が発する言葉
“発した”ではなく、“発する”言葉なの
人が発した真言は、人の願いを籠めた言葉であると同時に、人と身を合わせた仏が発する命令
それは願い主である人と仏の無心の感応であり、真言によって語業が、仏を想うことによって
意業が、合掌することによって身業が為され、その瞬間に仏の世界が展開していると言うこと
命の中の仏性が輝く瞬間ね
お大師さまが真言を「漫怛羅」ではなく「曼荼羅」とされたのはその故だわ
そう、あなたの言うように真言は心が大事
それは真であり、信であり、芯であり、申であり、また深であり、身であるから
形に振り回され、本質を見失なっては何にもならないわ