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元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。
管理を任されていた京都町奉行官吏は過激な志士達の脱走を恐れて、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣など囚人33人を斬罪に処してしまう。
しかし六角獄舎に火は回って来なかった。
これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。
さらに、先月の池田屋事変の折に捕縛されていた尊皇攘夷志士(古高俊太郎ら)も斬罪。
この件は新選組の仕業と疑われるようになる。
明治以後、監獄から保護施設として改築された。
斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。