10/11/12 17:12:20 w9XFhCeE
>>400
ありがとうございます。
私も田島日記から、美智子妃誕生までを簡単に追ってみました。
皇太子妃誕生に深く関わった田島氏、小泉氏、宇佐美氏の動きが主です。(敬称略)
・昭和25年に孝宮結婚問題が片付いたので、いよいよ東宮妃について考える時期がきたと判断。
・両陛下(昭和天皇・香淳皇后)に、皇太子(今上)の欠点や、東宮妃の望ましい資質―高貴で親しみやすい―というヴァイニング夫人の考えを奏上。
・同じく昭和25年9月から東宮妃探しが本格化。
・昭和26年には「皇太子妃候補名簿ノ件」という一行が日記に出てくる。
・昭和28年6月にお妃選びの第一回会議。
・同年8月に田島は松平信子に東宮妃選びの相談に行く。この時点ではお妃候補は旧皇族、旧華族からと考えていた。
・田島は昭和28年に退官するも、その後も両陛下(昭和天皇・香淳皇后)の意向を受け、宇佐美長官、小泉信三と密に連携を取り、皇太子妃選びに関わっていく。
・昭和30年3月の日記には、「在民ノホウガヨキコトニハ従ウ旨返事」。民間妃でも良いという考えは、このころには浮上していたと思われる。
・そして、まず名前が挙がったのは徳川令嬢。そして山梨元海軍大将の令嬢、三田令嬢。
・同年9月の田島の日記に、小泉が田島に伝えた話。「東宮様(今上)ト雑談中ノ話キク。平民デモヨシ。但シ学習院、聖心ハ固イトノコト」。つまり、皇太子自ら平民でもいいとおっしゃった。
・同年10月。小泉が田島家に来訪。皇太子は妃を「国を思って貰う」と言われたことを伝える。
・候補に名前はそれなりに挙がるものの、この後も皇太子妃選びは難航。田島日記にも、候補者の名前が現れては消える。
・昭和31年8月、田島、小泉、宇佐美長官はHさんを見るために軽井沢のテニスコートへ。皇太子の周りはこのHさんの線で話を進めようとし、皇太子自身も積極的。
・昭和32年に入るといよいよこのHさんに絞られてくる。Hさんは承諾するのか。
・同年4月から何度かHさんの家を訪問し説得するも田島の努力は報われない。結局、Hさんとの話は流れ、お妃選びは暗礁に乗り上げる。