10/11/12 16:43:15 +8ikmCxt
参考まで。
◆香淳皇后
皇太子明仁親王と平民出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された際には
秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として
長年宮中に仕えた松平信子らと共に「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。
『入江相政日記』においては、松平信子が宮崎白蓮などと示し合わせて右翼団体を動かして
正田家にご婚姻辞退を迫ろうと運動させようとしたと記されている。
香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、
昭和50年(1975年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が
残されており、後々まで尾を引いた。
◆「茨の道50年」=松崎敏弥
(SAPIO 2009年9月30日号掲載) 2009年10月5日(月)配信
美智子妃が63年に第2子を胞状奇胎で流産されたときは、さる高貴な血筋の方から
「皇室の血のために結婚を認めたが、これでは我慢のしがいがなかった」と面と向かって
罵られたと伝えられている。流産のショックでノイローゼになり、3か月間、
葉山御用邸に引き籠もった。〝まんまるお月さま〟と称されていた
ふっくらとした美智子妃は10㎏も痩せてしまったのである。
香淳皇后との確執も長く取り沙汰され、75年の昭和天皇と香淳皇后の訪米の際、
お見送りで挨拶をされた美智子妃を香淳皇后が公然と無視したのは有名な話である。
女官らによるいじめも相当あったようだ。皇室の礼儀作法について女官長に尋ねると、
「ご自分でお考えになってください」と冷たい返事をされたこともあるという。
こういった陰湿ないじめに美智子妃は耐え続けてきたのである。
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ちなみにこのサイトでは大内糺の記事には誤記や事実誤認が多く、
悪意で書かれたものと言わざるをえない。とある。
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