11/04/16 11:10:46.25 8HMMwtZT0
しかし安龍福の密航は竹島への渡海禁止が通達された後で、すでに江戸幕府は鳥取藩米子の
大谷・村川両家に与えた渡海免許を返還させていた。ところが密航後、朝鮮に戻った安龍福は
「欝陵島で鳥取藩米子の漁民等と遭遇し、それを追って鳥取藩まで行き、鳥取藩では藩主に
抗議して、欝陵島と竹島を朝鮮領にした」と、供述したのである。韓国側はこの安龍福の供述を
歴史の事実とし、竹島が韓国領となった歴史的根拠とするのである。
だが安龍福の供述は、事実を伝えていない。欝陵島への渡海禁止が通達された五ヶ月後、
鳥取藩領に密航して来た安龍福に対し、江戸幕府の指示を受けた鳥取藩は、安龍福を加露灘から
追放していたからである。ところが帰還後の安龍福は、朝鮮側の取り調べで、鳥取藩主は、
「欝陵島と于山島は既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な
要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう」と語った
とし、安龍福の帰国に際しても、食料と護衛の使者をつけてくれるといったが、それを断ったと
供述していた。この安龍福の供述は、日本史の知識があれば偽証は見抜けるはずである。鳥取藩が
幕府に代わって領土交渉に応ずるはずもなく、朝鮮との外交窓口は対馬藩に限られていたからだ。
韓国側では、日本側の史料を正確に読んでおらず、安龍福の供述だけを根拠に、江戸幕府は竹島と
欝陵島を朝鮮領と認めたとしているのである。内藤正中氏は、江戸幕府が「1696年、欝陵島と独島を
朝鮮領と確認」したとするが、内藤氏の主張には根拠がないのである。
同様のことは1877年3月、太政官が竹島と松島に対し、「竹島外一島の儀、本邦関係これなし」と
した太政官指令の解釈でも言える。内藤正中氏は、1876年、島根県が竹島と松島を島根県に編入
すべきか中央政府に伺いを立てた際、太政官は「独島と欝陵島は日本の領土と関係が無い」と解釈
した。だがこれは内藤氏の恣意的解釈に過ぎない。
その理由は、当時の地図や海図は、1840年のシーボルトの「日本全図」(写真1)の影響を受け、
実在しないアルゴノート島に竹島と表記され、欝陵島には松島と表記されていたからである。
(以下の地図は李鎮明著『独島、地理上の再発見』2005年刊から)
URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
(【写真1】李鎮明著『独島、地理上の再発見』からの転写。韓国語のタイトルには「1840年、
シーボルトの『日本全図』の部分図(地図37-B)参照」とある。
このシーボルトの「日本全図」により、その後の地図や海図では、江戸時代に竹島と呼ばれていた
欝陵島が、松島と表記されることになるのである。そこに現在の竹島が登場するのは1849年、
フランスの捕鯨船リャンクール号によって発見され、リアンクール岩礁と命名されてからである。
そのため当時のフランスやイギリスの海図(写真2)には竹島と松島、それにリアンクール岩礁が
描かれ、混乱の痕跡を見ることができる。
URLリンク(www.pref.shimane.lg.jp)
(【写真2】李鎮明著『独島、地理上の再発見』からの転写。韓国語のタイトルには「1863年、
英国海軍海図『日本-九州、四国及び韓国一部』の部分図(地図48)参照」とある。この海図では
竹島(アルゴノート島PD・pending/未定・未確定)、松島(ダジュレート島)、リアンクール岩礁が
描かれている)