10/11/16 22:30:44 Hacj7whK0
(>>15 からのつづき)
■不安と怒りの日々
ゆり子さんには、おでこに小さな黒い斑点があった。ヒ素による色素沈着だ。小学生になると、
鏡を見る度に「ヒ素の刻印」におびえた。ひどい頭痛に悩まされ、本人も家族も「いつか発病
するかも」と不安にかられ、「何でこんな目に」と憤った。「これがうちの歴史なんだ」。岡
崎さんは自分の問題として受け止め、父の封筒折りなどを手伝った。
14年後の69年、事態は一変した。大阪大の丸山博教授の追跡調査で、粉ミルクによる脳性まひ
などの後遺症が明らかになった。被害者は「守る会」を中心に結束を強くする。73年に被害者
団体と旧厚生省、森永乳業の3者が交渉し、森永乳業が責任を認めた。財団法人「ひかり協会」
(大阪市)が発足し、被害者を救済する仕組みができた。しかし哲夫さんは「救済組織と被害
者団体は一定の距離を保つべきだ」と考え、活動方針の違いから86年に運動を退いた。そし
て「救済に至るまでの“公害の闇”を残したい」と、資料館設立を目指した。
00年秋、小学校教員だったゆり子さんが45歳で亡くなった。リンパ系臓器にがん細胞ができ
る胸腺腫だった。哲夫さんもその冬、末期がんで倒れた。昏睡(こんすい)状態に入る前、岡
崎さんは「最後の会話になる」と医者に告げられ、父の耳元で誓った。「資料は社会に生かす
ように残すからね」。父はわずかにほほ笑んだ。(つづく)