10/08/28 19:43:28 f1xIXVCm0
>>88
福澤塾という名を慶應義塾と改めたのが慶應四年でしたが、入学希望者の中にはまだ、低年齢の子供
も多かった。そのため塾内に「童子局」を設けたのが幼稚舎の始まりだそうです。三田の山の上で一人
前の若者たちと、まだいたいけな幼児とが同居していた。創立150年を過ぎて慶應義塾は多彩な人材
を社会に送り出しました。ミドルクラスの様相も明治時代とは一変した。日本の明治以降の近代文明の
発展に大きく貢献したのが慶應義塾です。福澤先生は故郷である中津の旧友に対して「農業に就くなら
豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。」「粗衣、粗食、寒暑に耐え、米を搗き、まきを割り、それ
でも学問はできるのである。」「麦飯を食い、味噌汁をすすっても、西洋文明の学は学べるのである。」
と述べています。これらが豪農や豪商といったブルジョワジーに対して述べたものであるとは到底思えま
せん。故に、慶應のルーツは士族授産であると信じて疑わないのです。そして、福澤先生の期待に応え
るように塾員から大商人が生まれるようになった。それは塾員として実学の精神を忠実に実践した結果
であると言えます。そして、大商人が自分の子供も自らが学んだ慶應義塾で学ばせたいと考えるのは自
然なことでしょう。大商人の子弟が慶應義塾に学ぶ意味もやはり実学によって判断力を養うことにある。