10/10/04 17:36:15 /r7oxiHw
ジジェクがラカンを語る方便のように映画を論じるのよりはマシとはいえ、
ドゥルーズも、(主に)ベルクソンを語る方便として映画を論じている一面はあるかも知れない。
だがまぁ、従来、映画の批評なり理論なりで用いられてきた語彙だけでは語れない、
例えば時間性の問題なんかを論じるにあたっては、哲学の概念が有効に働く部分もあるんじゃないかね。
ヘンに有り難がる必要も無いが、毛嫌いする必要も無い。
蓮実はドゥルーズの『シネマ』を書評した際に、「あまりにも美しくて、どうしたって泣いてしまう」というような、
「笑う」とか「泣く」というのをイメージの機能と見做すドゥルーズに同意してるんだが、俺には同意できんな。
ベルクソン的イマージュと、観客の眼前を機械的に流れていく画面とを安易に同一視しすぎなんじゃないかねぇ。
メッツとの対談でも、「小津を観て泣く」というメッツの言葉を聞いて安心した様子を見せているのが気色悪いw
にしても、小説については、例えば『早稲田文学』のインタビューでドストエフスキーをバカにした後、
「ちょっと堕落したいときというか、今日は自分の存在をそのままに無傷にあたたかく留めおきたいというなら
チェーホフの散文を読んでればいいのですから、ロシア文学って本当に奥が深い(笑)」とか言いながら、
映画に関しては、例えば『アバター』評で「期待通りに」展開したことに「思わず拍手してしまった」り、
「まともなアメリカ映画なら」云々と「察しをつけるが、事態はそのように推移し、見る者に甘酸っぱい安堵感をもたらす」などと言う。
映画については安直な「物語」を肯定するダブルスタンダードと言えまいか。
古くから映画を観てきたシネフィルとしての「自分の存在をそのままに無傷にあたたかく留めおきたい」というオタク的自慰というか。
リンチについて「映画の人ではない」みたいなことを言って違和感を示すのもそのせいだろう。
リンチをフォローする阿部ちゃんにしても、「過去の映画はこうだったという意識も見られる」とかいう、蓮実基準の擁護しかしないのが情けない。