11/03/27 19:51:49.84
昨年の吉川英治文学新人賞や本屋大賞を受賞した作家の冲方丁さん(34)が、東日本大震災で被災した
福島市の自宅から一時避難し、母親と妹夫婦が暮らす池田町に滞在している。震災4日後の15日に
タクシーで出発し、山形県米沢市、新潟市を経由して十勝入りした冲方さんに、被災時の状況や原発事故に思うこと、
復興への考え方などを聞いた。
−地震発生時の状況は。
締め切り間際で仮眠中に震度7の揺れに襲われた。ベッドが左右に揺れて立ち上がれず、家が壊れると思った。
床が抜けるか天井が落ちるかという恐怖だった。家内と駆けつけた幼稚園も無事で、4歳の長男を連れて帰った。
家は大丈夫だったが、庭に一直線に亀裂が入っていた。幸い電気は大丈夫で水道が止まった。車で1時間ほどの
町が津波に飲み込まれていくのをテレビで見た。とんでもないことが起きたと感じた。
◆巨大な陸の孤島
−被災した町の様子は。
近所のコンビニは車であふれ、見たことのない大混雑であっという間にものがなくなった。数日で回復する
というライフラインへの信頼感があったが、都市全域でガソリンがなくなり、物流が絶え、きょう明日の食料と
水の確保に必死になった。そこに原発の水素爆発。よもやと思った。地震に津波、原発、ライフライン、物流。
わずか数日で3次、4次被害が続き、都市機能がなくなった。このままでは青森から茨城までが巨大な陸の孤島になると感じた。
◆人多いほど物資不足
−避難を決めたのは。
とにかく無事な場所にと考えた。従来の災害は復旧を目指し、被災地周辺にとどまって救助を待つ「待機」
が大前提だった。今回は被災地に1人でも人が多いほど物資が足りない速度が速くなると感じた。
タクシー会社があと2日は動くと情報を得て、15日深夜0時に出発した。米沢でも瞬く間に
ガソリン不足になり、被災地周辺から物資が減っていくのを実感した。原発、物資不足と
目に見えないものに襲われている感じだった。確実に生活、健康が脅かされていった。
−原発事故で何を感じたのか。
福島は第1原発から60〜70キロ。退避圏域はチェルノブイリ事故で100キロと聞いていたが、
目に見えるものでないので、心理的に動きたくない住民は「大丈夫」を繰り返していた。
現地では気にしなくなるというか、気にしていられない状況。こちらで振り返って初めて怖くなった。
放射能被害が広がればもう戻れない。津波で家を運ばれた人の気持ちが分かった。
世界に例のない災害で復旧のイメージが全く浮かばない。
◆ぎりぎりの隙間
−自身のシリーズ小説で「日本が滅んだ理由は津波で原発が破損したから」と書いていた。
日本の原発はすべて沿岸部に位置し、津波は一番の弱点と考えていた。学者の中には危険を主張する人もいた。
だれしも日本の原発を真面目に考えたときにイメージできたことだが、イメージはできるが現実感のない
ぎりぎりの隙間をつかれた感じがする。
−今復興に必要なことは。
財産も家も失った被災者は、経済活動が可能な地域に一刻も早く移住することを考えるべき。まちを捨てる
のでなく、復興させる力を全く新しく手に入れねば。元の生活に戻ろうとして戻れないのが一番人の心を
疲れさせる。一番心配なのは、生きる希望を失った避難者の自殺や病死だ。被災地に物資を運ぶより、
被災者を外に出すことが大切。義援金も物資輸送だけでなく、移動に充てることを考えた方がいい。
◆もう後には戻れない
−原発事故を受けて、今後の社会のあり方は。
長期に渡って切り離す方向性を考えるべき。原子力に変わるエネルギーがあるのではという発想が大切。
新しい21世紀型、その先を見据えた想像力を働かせ、一刻も早く開発しなくてはという危機感、
使命感を持つべきだ。個人と共に、国家単位でも新しい生活を目指していかないといけない。
もう後には戻れない。
−自身の今後は。
福島と東京の両拠点を失った気持ち。帯広はアクセスが良く、移動の自由度が高い位置にある。
帯広周辺に拠点をもう一つ作りたい。
十勝毎日新聞
URLリンク(www.tokachi.co.jp)
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