11/09/04 05:23:59.86 RvsvnnvJ
>>524
可能性のひとつとして、生の終わりがあるということですが。依存行為と正反対ではないですか。
依存というのは、アイデンティティの認識行為であり、すなわち生きている証だと思います。
強い依存は、心身を削るということですが、
弱い依存は、通常のコミュニティを形成することだと思います。
両者の違いとして、認識のレベル差があるのではないでしょうか。
そのレベル差が、認識の相違を発生し互いに差異を感じさせる要因ではないでしょうか。
つまり、生の執着が強いコミュニティを形成すれば良いのではないでしょうか。
さらに言えば、アイデンティティのレベルを下げれば良いと思うのです。
相手に必要とされる→依存 ではなく、結局のところ自身が気付かないといけない。
結局のところ、ヒトは孤独であると。自分の事もわからないのに、他人の事なんて
理解できるはずがないと思うのです。
だけど、その逃避行動が依存なのかな、とか考えるとループするのですが。
結局のところ、物理的な接触が一番良いということでしょうか。
生の終わりを選択するのは、依存とは正反対だし、また依存以外の
要素を含んでいると思います。
長文で失礼しました。