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1989年7月に、明菜は自殺未遂騒動を起こした。松田聖子と並び、
アイドルの頂点に上り詰めた明菜はマッチこと近藤真彦と、デビュー間もなく熱愛関係に陥って、
自宅マンションでのデートを重ねていた。だが、2人は会う度に喧嘩を繰り返し、
それが原因で明菜は自殺未遂を再三繰り返していたという。
結果、次の日のコンサートをドタキャンすることも度々あったというのだ。
明菜育ての親といわれる所属事務所「研音」の元幹部は、
「89年7月のときも、明菜が自殺未遂したと聞いて、またかと思った」と当時のことを筆者に語ってくれた。
この元幹部によると、いつものことだから慌てることはないと思いつつ病院に駆けつけると、すでに、
マッチの芸能界の母親代わりであるジャニーズ事務所の"女帝"といわれていたメリー喜多川副社長が病院にいて、
明菜に「あなたは、研音に騙されているのよ」という嘘を吹き込んでいたというのだ。
明菜が莫大な資金をマッチのレース活動に貢いでおり、金銭問題も喧嘩の一因とされたが、
メリー氏はマッチを守ろうと、明菜に対して「あなたは事務所に騙されている。不当に搾取されている」
というようなことを吹聴し、明菜の不満の矛先を研音に向かわせたとされる。
この言葉を信じた明菜は、すぐに独立を決意。その年の12月には、メリー氏の計らいもあってか、
マッチのレコーディングディレクターだった小杉理宇造(現ジャニーズ・エンタテイメント代表)氏を
スタッフにつけて、新事務所を設立、明菜もそこに移籍した。
ところが活動を再開しないうちに小杉氏が事務所を辞めてしまい、明菜はハシゴを外された形になったのだ。
研音という後ろ盾を捨てたと同時に、ハシゴを外された明菜は、
自分を騙していたのは研音ではなく、メリー氏ではないかと思い、マッチとも手を切ったといわれる。
研音ともジャニーズとも摩擦が生まれてしまった明菜には、裏社会も含めて有象無象が近寄ってきた。
だが、そうした人物たちしか頼るものがなかった明菜のその後の転落ぶりは、筆舌に尽くしがたいものがある。