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ティーズル署長は、朝鮮戦争の『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』に海兵隊員(曹長)として
従軍・参戦したのだが、映画では朝鮮戦争の一件が殆ど語られていなかった。映画で、それが表明
されていれば、ティーズル署長もランボーに或る程度の理解を示した筈である。
ティーズル署長が参戦した『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』についても触れてみよう。
『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』は西暦1950年11月24日に端を発する。
西部の陸軍第8軍と北東部の海兵隊第10軍により、攻撃作戦を開始した。その翌日の25日、中共軍
が大挙襲来して、有名な人海戦術を展開した。
陸軍第8軍は、18万人という中共軍の兵力に圧倒されて、後退を余儀なくされる事になった。
さらに、長津湖の西に前進していた第5・第7海兵連隊が、同月27日夜に中共軍の大変な反撃を受けた。
ティーズルは第5・第7海兵連隊のどちらかにいたのだろう。
11月28日から12月2日まで、第1海兵師団は中共軍の8個師団による猛攻撃に耐えていたが、遂に
撤退を決意した。これが、『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』の始まりである。
第1海兵師団は、中共軍と戦いながら、極寒の山岳地帯の120kmの道程を後退した。喝隅里まで撤退
して、さらに古土里を経由して、真興里へと後退したのだが、道は谷あいにあり、両側の山から中共軍が
猛烈な攻撃を加えて来た。
その上空では第1海兵航空団の F4Uコルセア戦闘機が飛び、第1海兵師団の撤退行動を援護した。
雪が降っていたが、海兵隊のパイロット達は、仲間の海兵隊員を中共軍の手に落とさないように、必死で
飛び回った。ティーズルが殊勲飛行勲章(殊勲航空十字勲章)を受けたのは、この時に飛んだからだろう
と思われる。
北京放送は「第1海兵師団の殲滅は時間の問題だ」と言ったが、海兵隊は12月11日に、やっとこさっとこ
真興里に到着した。海兵隊の最終目標は興南だったのだが、中共軍が攻撃出来るのは真興里までの山岳地帯
だったので、海兵隊の撤退作戦は、事実上成功した。
だが、その代償も高くついた。死者618人、怪我人1082人(ティーズル署長もその1人)、行方不明者
192人に及んだ。対する中共軍は、37万人もの死傷者を出したのである。
以上が、ティーズル署長が従軍・参戦した『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』の全容である。
また、『チャンジン(長津)・ダム撤退作戦』で、ティーズル署長は勲章を授与されている。原作では、
署長室に表彰状があって、それにこう書かれていた。
『海兵隊兵曹長、ウィルフレッド・ローガン・ティーズルへ。
圧倒的多数の敵前に於ける、顕著にして勇敢なる統率力を、ここに賞する。
─西暦1950年12月6日、チョセン(長津)・ダム作戦にて』
特別勲功十字勲章×1回。これは、海軍殊勲十字勲章(海軍・海兵隊・沿岸警備隊共通)
の事だろう。
他に、銀星勲章・青銅星勲章・パープルハート勲章・殊勲飛行勲章(殊勲航空十字勲章の
ようだ)、殊勲勲功勲章が各1回ずつ。
これが、ティーズル署長が海兵隊員として、朝鮮戦争の『チャンジン(長津)・ダム撤退
作戦』に従軍していた時の受勲の全てである。