11/05/29 21:54:28.95 d08P/7YP
ハイデガーはこんなこと言ってる。
一般的な意味で死は存在しない。
人間は自分の死も他者の死も経験できないからな。
だが、他者の死は見える。
だから他者の死から自身の死を類推するんだが、
死が極めて私的なものであることもたしかで、
ゆえに死は自己の死として語らざるを得ない。
つまりね、ハイデガーが指摘しているのは、
大概の死に対する言説は、自己の死と他者の死の同一性を前提としているってことだな。
で、他者は自己に吸収されて消えてしまう。
ただひとりのわたし、ただひとりの現存在、という状況だな。
これをハイデガーは「閉塞」というんだけど、
それを回避するために、ハイデガーは形而上学とか存在-神学とか持ち出してくる。
ま、それは良いにしても、鬼のご高説はこの同一性の論理に支配されとる。
つまり「閉塞」しとるように感じられるな。
だからすごく押しつけがましくて、退屈で、生理的な嫌悪感を覚える。
酒飲みながら>>860読んで、そんなこと考えたよ。