11/06/20 15:23:28.00 Nf+sWp6+
>>747
すまんね。返事が来ると思ってなかったし、投稿したら規制食らって遅れた。
まず、これはコーランの「140と何番目だったか」の文章にあるらしい。
はじめは、どうやら楔形文字でフェニキアの言葉だったようだ。
どこがどうなったか知らないんだが、アラビア語でコーランに書かれているようで、
イスラム教圏ではコーランを読むテストまであり、まあ、大学入試のような重要な試験だ。
宗教の経典と言うのは、全てを教えてくれることはない。アラビア語でニュアンスがわからないと、正確な解釈は難しい。
だから、日本語で理解してもまるっきり意味不明だったりするわけだ。
アラビア語で書いているから、日本語ではアラビア語のニュアンスまでは書けないわけだ。
アラビア語で読めば、日本語で読むほどの極端な不可解さはないと思うよ。
また、宗教は「自分で考えなさい」と言うところも大変多い。
だから、答えをくれているのに、何を言っているかわからない。私もよくわからん。
なぜなら、人生相談の一般論では、一人ひとり違う解釈を見つける。
普通は、不特定多数(同民族と思ってよし)に向かっての言葉なので、論理的には決められないんだよ。
その中で、本当に優れたものが、世界で詠まれるので、ますます特定できないわけだ。
これが、人生を幸せに導くような、気の利いた一言の特徴なんだよ。
普通は、たった一言語るだけで、一人の人間を幸せにできる人は、ほとんどいないんだ。
経典を読んでも、いまだに宗教戦争をやっているくらいだから、なかなか幸せにはできないんだよ。
なんで経典があるかと言うと、宗教戦争の規模が抑えられるからだ。
「最悪だけは避けよう」ということだね。
よって、言いたいことが読解できるだけでは、宗教として成り立たないんだ。
読解したら、それを、人生にどう役立てて、本当に幸せになるか。
本当に幸せにならなければ、難しい文章の読解力があっても意味がないわけだ。
ごめん、つづく。