10/09/05 05:17:51 jqCx6c1k
余談だが、面白いのは、雌魚は苛めた後意外と「跡」が残らない。
むしろ喪服魚や海苔Pのように「艶」さえ出ることもある。それが一時的に終わることもあるが(なぜ一時的になるか・・と言うと、雌というのは雄が想像する以上に都合の悪いことを簡単に忘れられるからだろう)。
しかしこれが雄魚だと意外に残る。特に心・頭に。
以前書いた時ははぐらかしたが、数十年前苛められた末、あまりの苦痛で顔が変わった雄魚として、「危ない刑事」がいる。
あの魚の変遷を見て欲しい。一時期明らかに顔がおかしくなっている。
ところが業界魚とは面白いもので、おかしくなった「キモイ顔」も人目に晒され続けると徐々に「見れる顔」へ戻っていく。他人に見せるプライドが顔を引き締めるのだろう。「さすがプロだ」とその筋で感心されていたものだ。
もっとも加工しまくっていれば、そうはならなかっただろうが。加工魚の衰えた面や肉体ほど醜いものはない。だからこそ彼女(彼)らは稼げるうちに必死に稼ぎ、肉を売る。後が恐いから。
・・さて最後に、いままで長々と書いたことを否定し、そしてもしかすると貴殿が聞きたかったかもしれぬ話をしよう。
上記したような、俺のような平和ボケ素人が軽い気持ちで参加できる「残虐祭」は、所詮「児戯」に過ぎない。残虐というよりはまさに「キモイ」で片付けられる範囲内。
平和池の大半の調子乗りは「本当の殺」を、「血」を知らない「平和ボケ」だ。「一線を越える」ことを恐がるのは、天上人の間では常に訳の解らない宗教が流行りまくっていることからも解るだろう。
彼らが願うのは実は幸福ではない。己が犯した悪事から逃げたいだけ。例えば誰かを「たまたま」死に追いやったとする。その「報い」から逃げたい、守って欲しい。それを神様に祈願する。気休めに過ぎなくても。
平和池以外はそうではない。例えばどこかの幸せな家を突然襲い、父の目の前で妻と娘を犯した挙げ句父を殺し、母娘を売りさばこうが天罰があるとは思わない。何故か、やっても一度も罰を受けたことがないから。
平和池はヌルい。貴殿が思っているよりずっと。つまりみんな「厨房」。己の行為の残虐さを深く理解せず「蜻蛉」を切り刻んで楽しむほど「純粋な子供」ではない。切り刻んだ肉片と血は恐い。想像するだけで。
「神を恐れぬ」などというのは、恐れているから出てくる言葉。
逃げているだけで、実は恐い。織田信長を挙げるまでもなく。
適度に教育を受けた我々は、だからそれより「言葉いじめ」の方が格段に愉しい。楽に吐き出せる、力もいらぬ、血を見なくてすむ。
あとは「他人から奪う」快楽。「勝つ」快楽。「見下す」快楽。
血や肉片より、他人の悔しがる顔を見る方が好き。>>733のように。
・・まあ有名どころでは「死体マニア協会」なる連中もいる・・らしいが、自分が殺すなどもってのほか。自然死した名のある魚の死体を眺めることが趣味、という慎ましやかさのようだ。
そんな状況だから、いままで俺が書いてきた話は、貴殿からすれば恐らく聞きたいこととは「ズレた話」だったはず。
まあその辺は、魚を食う妄想が好きな平和ボケした輩へのサービス。
では本題。
ところが俺のような平和ボケではない本物の残虐好きも、やはりいる。特に御老人に多い。
そんな輩が一番簡単に残虐的遊戯ができる、そして使い捨てできるものは何か、それは「自分が飼っている魚」だろう。
本当に好きな輩は、「出入り」する前に、自分の家でやっているものだ。まず自分で用意して、或いは育てて。
市場に出入りするのは、それに少し飽きてきた、面倒くさくなった時ではないだろうか。
恐らくそれらのほとんどは名のある魚ではない。「制約」がかかるから。「死んでもいい魚」を使うはず。
そして彼らが集まると、「真の残虐まつり」が起こる。勿論魚が死ぬこともある。殺す祭もあるだろう。殺せる魚を用意して。
そして殺した後、どこかの山などにバラバラにして捨てることもあるだろう。「その後」を楽しむ為。
逆に言えば、もしそういう経緯で捨てられたバラバラの魚の死体が見つかろうと、それをバラして捨てた「ホシ」もしくは「ホシ達」は、半永久に隠れたままだろう。ホシ達の力が失われない限り。
連中というのは気まぐれで、時に悪戯をする。よく覚えておくべき。それに巻き込まれるのは非常に不幸だ。どうしようもないから。
俺もできれば関わりたくない。彼らは基地外を超えた純粋な子供だから。本当に自分のやりたいようになさる。それ故、あまり表に出たがらないのが救いか。
以上、全て妄想。特に最後の話で、俺をただの「都市伝説ヲタ」と見破った賢者も多いだろう。