11/02/15 12:20:25 R2VUhgUx
島津亜矢が、歌唱力はあるのにビジュアル面で多少難があるということで人気が今一。流行歌手にとって人気が一番大事か、
歌唱力が一番大事かという「歌屋論争」問題を少し掘り下げて考えてみよう。
その為には流行歌というものを概観してみる必要がある。(また繰り返す)
戦前は民謡でも浪曲でも歌手は歌唱力で評価するのは当たり前で、人気はそれに比例してたから、流行歌もそれにならって
音楽学校出の歌手が活躍した。流行歌は商業的で軽薄という世間の偏見を打ち消すにはアカデミズムの権威を必要とした。
世間も芸大卒じゃないそれ以外の音大卒の歌手を一段下に見たと言うから、いかにファンの間でアカデミズム権威主義が支配的だったか。
戦後も歌唱力重視は引き継がれ民謡、浪曲出身の歌手が活躍した。ところがラジオからテレビ時代に入ると事情は一変した。
テレビや雑誌の顔写真など、歌手のビジュアル面が歌のイメージに影響を与え歌唱力と人気は比例しなくなった。それにそれまでは
流行歌は大人のものであったが、恋愛に憧れはするが恋人がなかなか出来ない若者の慰めごととして大きな需要が生まれ、業界もそこに
ターゲットを置いた歌手や、歌をプロデュースし始めた。
またアメリカ個人主義へのあこがれのシンボルとしての自由恋愛の考え方の影響も見逃せない。
恋愛そのものに人生の最大の価値があるんだというロマン主義的風潮は流行歌の詩の内容を大きく変えた。それまでは現在で言う
「ど演歌」すなわち、義理人情を中心的価値にした様々な人々の生きざまをテーマにしたいわば古典的な詩の内容だったが、
そういうものは売上の傍流になった。
そして現在では、メディアミックスの名のもとに巨大資本の下に流行歌も大衆も組み込まれてしまってる。50年にわたるテレビ時代の
流行曲を作りだす仕掛け、経験ノウハウの蓄積は巨大資本にとって大衆は操作するものでしかない。