10/06/13 16:17:41 x0OlnQfv
演劇を評価すること自体間違っている。表現に制約なんてないんだから
でも演劇が表現者と観客との関係の上で成り立っている限り、誰かの評価に晒されるのは宿命だ
しかも演劇は観る人を選べない
だから観客の評価を真に受ける必要なんてない
教育を受けていない人間がシェイクスピアを観てつまらないといったとしても、それを真に受ける演劇人はほとんどいないだろう
評価は十人十色というが、評価の信憑性は全く異なる。いちいち真に受けていたら、それこそ表現の幅を狭めるだけ
観客が演劇を評価する自由があるように、表現者には評価を選択する自由がある
だから講評の評価をあるいは一般客の評価を、以後の作品の参考にするのもしないのも表現者の勝手なのだ
表現者は自分の表現したいことを表現すればいい。観客に必要以上に囚われることはない。演劇に価値を求めること自体おかしいと思う
しかしそれでも演劇は人々を感動させる。それが観客主体の演劇であっても、そうでなくても関係ない
要は描き方が巧いか下手か、あるいは描き方は下手でも演劇に「生命」が宿っているかいないか
それだけの違いなのだと思う
繰り返すが表現者は自分の表現したいことを表現すればいい。それが「自己満足」な劇でも、実験的な劇でも、観客を第一に考えた劇でも、なんでもいいのだ。その代わりストイックに完成度に向き合う義務は負っている
そして観客は、その中から自分の身の丈にあった劇を見つけ出して、感動を得られればそれでいい
僕はそういうスタンスで演劇を作ってきた。観客と演劇を完全に切り離すことはできなくても、ある程度は無視して創ってきた。その代わり完成度だけは高めようとしてきた。
その結果、すごく感動したという意見も聞かれたし、すごくつまらなかったという意見も聞かれた
だけどそれはあくまで結果でしかない。僕は結果に興味はない、興味があるのはプロセスだ
その演劇がどのような考えで書かれ、どのように創られ、どのように表現し、どのように努力したか
そこに興味がある。他校の演劇を観るときも、それを大事にして観ている
なにか感じるものがあれば、部員たちととことん語り合う・・・それが楽しかった
結果の価値は、その演劇を自己完結できるかどうか、それを測る尺度の一つになることだけ
長々と私情を垂れ流して申し訳ない