11/06/11 14:27:30.32 0
199 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 11:52:38.93
殺生禁断の聖なる山や池で狩猟を行い、鶏・犬・鷹・馬などの諸禽獣を自在に操る関東武士の弓馬の実力は、
西国の住民にとっては<人知を超えた鬼神>として、畏怖と畏敬の対象となったのである。
北条氏が葦名頼連に期待したのは、高麗出兵への先兵としての類まれな武闘能力だったに違いない。
西国の各地に、頼連のような荒夷の手だれたちが、異国征伐の守護あるいは地頭として、移住してきたのである。
海津一朗『蒙古襲来』吉川弘文館(1998年)
256 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/05/22(日) 13:06:57.98
鎌倉で発掘された頭蓋骨は長頭の特徴があるという。
長頭は後頭部の発達により動体視力及び空間把握能力に優れていると一般的に
言われている。
258 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2011/05/22(日) 14:34:47.03
義経にしても『平治物語』(下巻)によれば、騎射を行うのは鞍馬を出てからである。
つまり義経は下総を根拠とする坂東武者である陵助重頼を語らってその手引きで鞍馬を出る。
その重頼を誘う義経の言葉の中に「物射て遊ばん」というのがあるが、義経は鞍馬を出て近江の鏡宿で自分で元服した後、
重頼に弓箭と馬を用意させ、東国への道すがら、重頼に「馳挽、物射」(つまりは騎射、歩射)を習いながら下ったという。
その後、義経は下総で一年ほど過ごすが、そこで狩猟をしていたことが記されている。
いずれにしろ義経が騎射術を習得したのは、鞍馬を出てからと考えるのが妥当であろう。
近藤好和『源義経』ミネルヴァ書房(2005年)